「つながりを、チカラに。」
100周年に向け、世界に存在感を示す名城大学
名城大学

ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

「青色LED」開発の原点となった
「ルミネッセンス」との出会い

吉久 先生は大学卒業後、神戸工業(現・富士通)や名古屋大学、松下電器東京研究所、そしてまた名古屋大学、名城大学と、研究の場を移られましたね。

ノーベル賞受賞の合同記者会見で青色LEDを笑顔で示す赤﨑教授と天野教授

赤﨑 自分では、継ぎはぎだらけの人生だと言っているんです。というのも、京都大学に行こうというのは自分で決めたのですが、就職してから自分の意思で転職したことがないのです。結果的にはみなそれで良かったのですが、神戸工業から名古屋大学に移るときも強引に誘われる形でしたし、松下電器東京研究所に行くときも自分の意思ではありませんでした。名古屋大学から名城大学に来るときもいきなり先輩から言われたのです。でもそれが良かったのですね、在籍期間では名城大学が一番長くなりました。

吉久 その時々で出会いもありましたでしょうし、偶然というよりも必然が重なったように思えます。

赤﨑 哲学者の三木清が「運命」という言葉を使っているのですが、人生は本当にどう変わっていくか分かりませんね。

吉久 私にとってのターニングポイントは、建築音響の研究室に入ったことと、名城大学に来たことですね。研究室を出て就職するときに、工業大学ではなく総合大学に行きたいという希望があって、ご縁があり本学に来ることになりました。理工学部の建築学科に配属されましたが、非常に自由な空気があって、来て良かったと思いましたね。先生が研究に取り組まれるとき、大切にしていることはどんなことでしょうか。

赤﨑 私は、研究というものは「どうやるか」ということ以上に、「何をやるか」がより大事だと思うんですね。窒化ガリウムの研究を始めるときも、周りはほとんどやる人がいない時代でした。

吉久 皆さん、どんどん撤退していかれましたね。

ストックホルム大学での受賞記念講演会で天野教授ら研究仲間を紹介する赤﨑教授

赤﨑 ええ。大学を出て神戸工業に入り、テレビ受像機のブラウン管を開発することになって、熱を伴わない発光「ルミネッセンス」に出会いました。そうして、ブラウン管の映像が映る部分である「蛍光面」の開発を手掛けるうちに、私はこのルミネッセンスにすっかり取りつかれてしまったのです。それが「単結晶」に取り組むことにつながり、やがては「青色LED」につながっていくのです。「何をやるか」という自分が打ちこめるテーマを決め、あきらめずに続ければ、道は開けるのだと思います。

吉久 そこが先生の素晴らしいところだと思います。「青色LED」実現の有力な候補として多くの研究者が窒化ガリウムの研究に取り組みましたが、品質の良い単結晶を作るのが困難で研究をやめてしまったり、他の材料に転向したりするなかでも、信念は変わりませんでしたね。

次ページ窒化ガリウムの可能性を信じただひとり困難な道を行く