「個と企業」を新時代へ誘う人的資本経営・後編 中途半端な変革ではお互いに不幸になるだけ
日本の経営者は独自の人的資本哲学を語れるか
大橋 何をやるか、施策をどう入れるかではなく、経営と人事の関係性を一から見直す必要がありそうです。そこに取り組まなければ、人的資本経営のパラダイムシフトにはなりませんね。そのためには研修についても、従業員をエンパワーメント、ないしはモチベートするという基本的なところを押さえることが重要になるでしょうか。
伊藤 研修で、私は「皆さんと会社との関係を絵に描いてください」と試すことがあります。会社を大きく円で描いて、その中に個人がいるような絵を描く人がいますが、それってどう思いますか? 私はこれがメンバーシップ型の心象風景だと思うのです。一方、個と組織をフラットに並べて描く、あるいは、大きな円が個で会社はその中の一部と捉える人もいます。
絶対的な正解はありません。ただ、人的資本経営でつくりたい関係とは、自分なりのシナリオを描き本人自身がハッピーになり、さらには従業員がスキルを磨くことで会社もハッピーになるというものです。
大切なのは従業員に対するリスペクトです。上から目線ではなく、対等な立場でプロフェッショナルとしてリスペクトしながら、人が育つ場を用意します。もちろん、新卒採用などの場合、最初からプロフェッショナルにはなれませんが、ゆくゆくはプロになってほしいと考えて育成するのです。
ところが、日本企業の多くは丁稚奉公や徒弟制度のような、「この道何年やらないと駄目だ」という発想がまだまだはびこっている。意欲もスキルも高い有望な若手でも「お前にはまだ早い」と言われてしまう。そして最悪の場合、辞めてしまう。この会社で自分の価値が高まるのだろうか、自己成長できるのだろうかと不安になった結果です。
日本企業は過去の経験などに縛られる経路依存性を引きずりがちです。さまざまな要素が複雑につながっている中、これをトランスフォーメーションしていくのは相当大変で、本質的な議論が必要になってきます。最近は人的資本情報開示が盛んになってきていますが、まずは経営者が人材というものをどう捉えているのかという、「人的資本哲学」を語ることが大切です。
大橋 統合報告書で人的資本に触れる企業も増えています。ただ、それでも有資格者が何人であるとか、研修を何時間やりましたといった内容にとどまっているところがまだ多い印象です。
伊藤 それでは人的資源管理と同じです。その認識を変えるためには、経営者の覚悟が不可欠です。人事部門は何のためにあるのかという根本的な問いに向き合いながら進めなければなりません。中途半端では従業員にも失望を与えるだけです。人的資本経営はこれまでの延長線ではなく、経営変革、トランスフォーメーションであるという「人的資本経営変革」の意識を経営者こそがもつのです。
つつがなく生きるか、新しい世界に挑戦するか
大橋 人的資本経営に関心をもつ従業員も増えているはずです。働く側の従業員は、どのように変わっていくべきでしょうか。
伊藤 生き方の問題やリスキリングにも絡んでくるだけに、経営者だけでなく、従業員にもそれなりの覚悟が求められます。
例えば、会社がトランスフォーメーションしているときに個人が従来のままでいることは、大きなリスクです。一方で会社が変わらないのに自分だけ変化するのもまたリスクです。
もし会社には人的資本経営変革の意志がないとわかったら、より大事にすべきは自分自身の生き方になってきます。会社に長く雇用してもらって、つつがなく自分のワークライフを長く続けられればいいと思うのであれば、それを選ぶのもいい。でも「それではつまらない」「もっと挑戦してプロフェッショナルになろう」と思うのであれば、自身でキャリアのシナリオをつくってスキルを獲得する必要が出てきます。いろいろな人に相談したり、学校に行ったりして学ぶのもいいでしょう。最近では副業や兼業を認める会社も増えてきたので、思い切って新しい世界に触れてみることも大事だと思います。生成AIなどのテクノロジーが進化する中で、今後は1つの職業、1つのスキルだけで生きていくのは難しくなると思います。複数のスキルをもち、それらを組み合わせることで、初めて変化に対応できるようになっていくでしょう。
最近では社会課題を解決したいと考えるようなやる気のある学生は大企業を選びません。ベンチャー企業に行ったり、自分でベンチャーを起こしたりします。これは大企業では丁稚奉公から始めなければならず時間がかかるからです。さらにキャリアも選べないとなると、自分のパッションを形にできません。
その傾向は学生や若い人に限ったものとばかりはいえず、40代、50代の方たちにも当てはまります。「自分も面白い人生を歩みたい、もっと社会課題の解決に貢献したい」という強い思いがあるのであれば、ポスティング制度や副業、兼業などの制度を利用して挑戦してみるといいと思います。
ピンチでありチャンス、経営者が問われている
大橋 人的資本経営の実践可否が、企業の成長性をも今後、左右するようになりそうです。
伊藤 政府は2023年5月、「三位一体の労働市場改革の指針」を発表しました。これは、「リスキリング」「職務給(ジョブ型)の導入」「労働移動の円滑化」を並行して進めようとするものです。
企業に二極化が起こるでしょう。「人を大事にしている」と言いながらメッキが剥がれてしまう企業と、本当に社員に投資して成長させる企業です。
その差は企業の中期的な競争力に反映されますし、投資家もそうした二極化に強い関心をもち、投資対象企業がどちらの極に入るのか注視しています。それは、日本がグローバルでどのようなポジションを取れるかということと、ある意味でつながっているのです。例えば、海外からの優秀な人材を獲得せずに、日本がいいポジションを取る可能性はもはやほとんどない。そういう意味では、ミクロとマクロのループも非常に大切になってきます。
企業にとっては(後戻りできない)ルビコン川を渡って、あちら側で生きていくのか、それともこのままこちら側の延長線の中で生きていくのかという決断が求められています。これは経営者にとって「あなたはどういう経営を選ぶのですか」という根源的な問いにあたります。
大橋 人的資本経営によってピンチになる企業もあれば、チャンスをつかむ企業も出てきます。これは私たち働く側にとっても、同じことでしょう。企業の取り組みをチャンスとして生かしていくことが非常に大切だと改めて認識しました。今日はありがとうございました。
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※この対談は、『フロネシス24号 未来社会への新胎動』(東洋経済新報社刊)