「個と企業」を新時代へ誘う人的資本経営・前編 「人的資源」と「人的資本」には明確な差がある
解雇しない日本企業は本当に社員に優しいのか
大橋 もともとは会計学がご専門だった伊藤さんが、「人材版伊藤レポート」につながる「人材への興味」をもたれたきっかけはどのようなものだったのでしょう。
伊藤 確かに時々で追いかけるテーマが異なるように映るかもしれません。ただ、実際には私自身は、「人」というテーマを一貫して追ってきました。
私は1980年、専任講師として大学に勤め始めました。当時の研究テーマが企業に関わる会計やファイナンス、戦略だったことから、複数の企業から経営人材研修を依頼されました。管理職の選抜研修に関するコーディネートをすると、1社当たり30人と接しているでしょう。そうすると年間10社300人、それを40年やっていますから、優に1万人以上を見てきたことになります。
大学の中にずっといては、企業のリアルな情報は入ってきません。産業社会や企業の中の動態をつぶさに知るためにも、私は日本企業の人材トレーニングの場に、ずっと身を置き接してきました。それによって、企業人のマインドの変化や、企業組織への思いや悩みが手に取るようにわかるようになりました。
そうした中で感じたのが、「社員を大切にし、社員に優しい」はずの日本企業への疑問です。突然の解雇こそありませんが、日本の企業は人材を「塊」でしか見ていない。人材を大切にすると言いながら、その活用手法がこのままでいいのだろうかとずっと思っていました。
もう一つ気になったのが、企業内でのコミュニケーション。経営者はあくまで経営者で、社員である受講生はその部下としてのつながりに終始するのが普通でした。基幹人材であるはずの受講生が、もう少し経営者とフラットな関係になれば、会社の進むべき方向などの重要な議論にも踏み込んで発言できるはず、と感じながらも、現実と理想とのギャップを埋められず歯がゆい思いをしていました。
大橋 第一線で活躍する経営人材の生の声を聞きながら、長年問題意識をもたれていた。それが「人材版伊藤レポート」につながるまでには、どのような議論があったのですか。
伊藤 経済産業省が2020年1月から「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会」を開催しました。「人材版伊藤レポート」は2020年9月に同研究会が発表した報告書です。経産省ではさらに、その内容を深掘りするため、「人的資本経営の実現に向けた検討会」を設置し、議論を重ねました。同検討会の報告書に「実践事例集」を追加する形でまとめ、2022年5月に公表したのが「人材版伊藤レポート2.0」です。
話が前後しますが、2014年に公表した「伊藤レポート」では、企業価値を高める目標水準として「自己資本利益率(ROE)8%超」を掲げています。ただ、「どうやれば企業価値を上げることができるのか」は、まだ私の中の暗黙知で、具体的な像になっていませんでした。
一方で前述のとおり、私は約40年間、企業における人材育成の場のリアリティー、人事部門が抱えている課題を見てきました。人事部門と経営者が有機的に組み合う例がほとんどない現実も認識していました。そこで大きな課題として浮かび上がっていたのが、経営者と研修を受けている社員の間のギャップです。これを2014年の「伊藤レポート」で結論を出せなかった部分と合体させることで「人材版伊藤レポート」がまとまります。
「教えてやる」ではエンパワーメントできない
大橋 「人材版伊藤レポート」は、もともともっていた人材に対するいろいろな知見や問題意識から生まれたわけですね。ただ「人的資本経営」が注目される一方で、「研修だけをやればいい、重視すればいい」といった誤解も一部では生まれているようです。
伊藤 これは、ぜひ強調してお話ししたいところです。「人材版伊藤レポート」以降、「人的資本」というキーワードとともに、リスキリング研修が注目されるようになりました。もちろん悪いことではありませんが、一方で表面だけを見ている人たちが多いとも感じていました。
人的資本経営へのストーリーは、私の中では2014年の「伊藤レポート」から始まり、2017年の「伊藤レポート2.0」のESG(環境・社会・企業統治)、そして2022年の「伊藤レポート3.0」のサステイナビリティ・トランスフォーメーション(SX)という流れを受けたものであり、すべてがつながっています。当然、その中でも根幹にあるのは、日本企業の競争力を高めることです。有形資産ではなく無形資産こそが、そのためのドライバーになります。
企業経営者の多くは、時代とともに経営の旬のテーマが切り替わってきたと考えているフシがありますが、それは間違いです。これは3階建ての企業価値アーキテクチャーなのです。1階はROE8%超を提唱した「伊藤レポート」、2階がESGやSXに触れた「伊藤レポート2.0」と「3.0」、そして3階が「人材版伊藤レポート」とその「2.0」です。そういった意味では、「人材版伊藤レポート」を読んでいただいて人的資本経営に興味をもってもらうのはすごくうれしいけれど、それは3階のところだけを見ているにすぎないのです。基盤の部分を経営陣と今後の経営人材となるキーパーソンで共有し、3階建ての全体像をつかめなければ、日本企業は強くなりません。
1つエピソードをご紹介します。私は1987年から、アメリカの大学にフルブライト研究員として赴きました。実はその前後で学生との接し方が一変したのです。アメリカに行くまでは、どうしても「教員の私が教えてやる」というスタンスがありました。ところが、私が所属したビジネススクールは、教師が学生をモチベートし、新しい発想を生み出すよう刺激するというスタイルで、目を開かれた思いでした。日本に帰ると同時に早速、私のゼミでもそのスタイルを採用しました。すると学生が大きく変わったのです。活気が出るし、ゼミの仲間意識も高まりました。結果的に全員でお互いをエンパワーメントし、切磋琢磨する。それまではゼミ生15人がみな教師だけを見ていたのが、「横」すなわち仲間も見るようになったのです。
企業組織も同じ。経営テーマについて話すときは、経営層が従業員に向けて話すだけでなく、双方向、あるいはもっと横のつながりを使うようになるべきだと思います。そうすれば、新たな発想が生まれ、新しいビジネスモデルやイノベーションに到達する可能性が出てきます。
人的資本経営の実現にはパラダイムシフトが必須
大橋 最近、企業の方々とのコミュニケーションの場で、前述のような誤解を耳にするとともに、「人的資本経営は何をやればいいんですか?」といったご質問を多くいただきます。
伊藤 「人材版伊藤レポート」では、過去のパラダイムとこれからのパラダイムを解説しています。例えば、「人的資源・管理」から「人的資本・価値創造」へ。つまり、従来の人事のやり方を見直すだけでは絶対的に足りません。「人的資源」と「人的資本」には明確な相違があります。「人的資源」では人材を効率的に管理する対象として見ているのに対し、「人的資本」では企業の価値を高められる存在そのものと考えます。
従来の日本では多くの企業がメンバーシップ型、つまり「入社=メンバー加入」でした。「メンバーなので長く雇用します。その代わり会社の指示は受け入れてください」というわけです。
これまでの日本の企業人の働き方は、メンバーシップを得ることと引き替えに、多くのものを会社の管理に委ねてきました。それでも、1980年代であれば、経済が成長し、ポストがどんどん増え給料も上がったので、犠牲を強いられているという意識はあまりなかったはずです。その後、失われた30年を経て、その形を見直さざるをえなくなっています。つまり、人材を「目減りする資源」としてではなく、「価値を増やすことができる資産」として捉えなくてはなりません。
そういう意味では、「会社が人を育てる」という意識も改めなければなりません。ともすれば、「育ててやる」となりがちですが、それは「メンバーになったのだから言うことを聞け」というのと同じです。人を育てるという側面まで否定する必要はありませんが、価値を顕在化できるように人が育つ環境づくりや支援、仕組みを、会社が提供するように変わってもらいたいと強く思います。
また、個と組織の関係性については「“相互依存”から“個の自律・活性化”へ」という流れを強調しています。個の自律とは、従業員が自らのキャリアを自発的に考え、選択し、そのキャリアに乗って新たなスキルを獲得していくというストーリーです。これまで会社が用意した画一的なキャリアパスに委ねるのが一般的だったものを、会社というコンテクスト、あるいは働くというコンテクストの中で、自分自身のキャリアのオーナーシップをもつべきだとしています。これまでと真逆のことをやらなければならないということです。今までやってきたことを少しチューンアップするだけで人的資本経営ができるかというと、それはまったく違うのです。(後編に続く)
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※この対談は、『フロネシス24号 未来社会への新胎動』(東洋経済新報社刊)