[特別対談]
すでにある正解を求めるのではなく、
ダイアローグから答えを導き出す
北川 智子(歴史学者)
× 日置 圭介(デロイト トーマツ コンサルティング パートナー)
対談にあたって -未来に向けた思考と行動の起点
日置 圭介
『グローバル経営戦略』の発刊も、今年で3回目を迎える。2013年版では、独り歩きする「グローバル化」の意味を問い直し、2014年版では、「グローバル経営の作法」と題して、事実として世界のスタンダードとなっているグローバルカンパニーに通低する作法を求めた。
このような日本企業への問いかけや提言は、過去のものになってはいない。ゆえに、冷静に物事を見通せば、予断を許さない状況であることに変わりはないが、意識や行動に変化の芽が見え始めている。
ひとつは、東京五輪を契機に何とか先を見通そうとする未来志向が高まってきたこと、もうひとつは、その未来志向に呼応し、グローバル社会における立ち位置の正しい認識と、そこに至るまでの歴史に対する欲求が強くなってきたことである。
歴史に学ぶ経営者も多くいらっしゃるが、年表や武勇伝のような歴史への従来的、単層的な見方だけでは何か物足りなさを感じ始めているのではないだろうか。歴史へのこのような欲求に接し、経営という切り口をも脱する必要性を感じ、『ハーバード白熱日本史教室』の著者で、歴史と対峙する独特のアプローチをお持ちである歴史学者である北川智子さんと共に日本の過去・現在・未来に眼差しを向けてみることとした。
我々が未来に描く歴史は、世界を統合的に鳥瞰するグローバル・ヒストリーの中にある。グローバリゼーションの次代が見え始め、変化の振れ幅は大きくなり、進度は速くなっている今、「歴史という時間を扱うスキル」が求められる。史実に正解を尋ね、静的に受け留めてしまうのではなく、ダイアローグで答えを導き出すという動的な歴史観こそ、日本企業がグローバルに臨んで持つべき姿勢に通ずるのである。
[特別対談]
グローバルへの対応は歴史の学び方にヒントがある
日置圭介(以下、日置) 今、多くの日本企業が、グローバルという環境にどのような心構えで挑めばいいのかわからず、悩んでいます。こうした状況を北川さんは、歴史学者の立場からどのようにご覧になっていますか。
北川智子(以下、北川) グローバル環境への対応は、歴史の学び方、見方を変えることにヒントがあると思います。たとえば、企業の方と話をすると、役職の高い人でも、「グローバル化にどう対応したらいいですか」「答えをください」とおっしゃいます。このような「教科書に書いてあることをまねしよう」という姿勢に違和感を覚えます。私は今、数学の研究をしているのですが、数学の場合は、どんな国の人が問題を解いても同じ答えが出ます。しかし歴史はそうではありません。紐解く人の文化が変わると同じ答えにならないのです。
だから、日本の歴史を違う国の人に教えようとすると、日本の教科書を訳して教えても役に立たない。これは経営も同じで、ある会社で役に立つからといってほかの会社でも役立つかといえば、そうではないでしょう。
日置 ケースが好きなんです、日本人は。たとえば日本の企業の方に、外国のグローバルカンパニーがやっていることを紹介しますと「これ、日本企業でやったところはありますか」とフォローしたがるのです。確かに、戦後の日本経済はこうしたフォローやキャッチアップで成長を遂げてきたのですが、日本人は昔からそうなのでしょうか。
北川 そうですね。「ケースを求めたがる」とか「例外になりたくない」というルーツは、江戸時代にさかのぼるかもしれません。江戸時代には鎖国というポリシーがあり――実際はそんなに鎖国でもなかったのですが――、その閉ざされた世界で幕府のポリシーに従いましょうというメンタリティがありました。ただ、そのことをもって「だから日本人はケースを求める」と決めてしまうのは危険だと思います。もう少し時間をさかのぼって、たとえば戦国時代を見てみると、まったく違う日本人がそこにいるわけです。求めるものが違えば視点も変わるので、現在の姿勢のルーツを江戸時代の封鎖的な風習に求めるより、戦国時代にはこういうことが起こりえたとポジティブに思考を転換していくほうが、歴史から何かを学ぶ姿勢としていいと思います。
日置 歴史を振り返るときに、きちんと戻り切れていないことは確かに多いですね。経営者の方が自社の歴史を振り返るとき、多くの方がバブルの少し前、日本企業が世界を席巻していた時代で止まります。あの頃はこうだった、みたいに。
北川 自分たちの歴史やルーツを近世・近代に求め過ぎていているのですね。
日置 おそらくそれは、今の経営トップの方々が若い頃、ちょうどその年代を過ごしたからなのでしょう。その前まで何とかさかのぼろうとしている方もいますが、それ以前になると、何となく自分の会社の歴史という実感が持てていないように見受けられます。
北川 たとえば日本人らしさを突き詰めようと思ったら、戦後だけでなく、江戸時代だけでもなく、千年以上前の平安時代を考えてもいい。今でもそこから日本人に引き継がれていることってたくさんあるので、もっともっと古い時代からある日本人らしさを見いだすこともできる。そういう長い時間軸の捉え方が、歴史から何かを学ぶためには必要かなと思います。
日置 非常に短く捉えた歴史から導かれた既成概念に縛られるのはよくないですね。
北川 時間軸でもう1つ、年表もやめたほうがいいと思うんです。
日置 歴史というと、まず年表から入ろうとしてしまいがちですが。
北川 出来事は確かに時系列に並べられるのですが、時にはその整理が歴史から何をつかむかという思考を妨げていると感じます。歴史の見方は、プリズムのようなものです。人それぞれの観点から光が投射され、文化の背景や目的によって、さまざまな屈折率を呼び起こすのです。それを時系列に並べてしまうと、さまざまな角度からの歴史の見方が遮断されてしまいます。
つながりからグローバルを学ぶ
日置 時間の捉え方もそうですが、国ごとではなく、包括的に歴史を捉えることも大事ですね。今回の対談を迎えるにあたって歴史の語られ方がどうなっているのか少し見てみたのですが、いわゆる日本史や東洋史・西洋史という感じで、どこどこの国の歴史を学ぶ、ということから、グローバル・ヒストリーという国と国とのつながりの段階に研究が移ってきているようですね。ハーバード大学にいらっしゃる入江昭先生はそれを「グローバル史観」とおっしゃっていて。今でも日本の歴史の教科書を見ると、日本の歴史と各国の歴史がそれぞれの章に分かれてパッケージングされています。これがすでに、グローバルじゃないですね。確かに世界各国のことは載っているかもしれないけど、そこから「つながり」を見いだすことは難しい。グローバル時代の歴史の学び方としては、それぞれが持っている歴史認識の違いをむしろ統合的に見えるようにすることが必要なのかなと思います。
北川 それは重要なことです。とにかく物事を広い視野で俯瞰して見て、そこから筋道を立てる。そこは賛成です。日本で歴史を見るときに、年表ともう1 つ問題だと思うのは、日本史と世界史を分けて考えていることです。19 世紀から歴史は国のためにあるものだと思って書かれていて、だからこそ日本人もそこに書かれた国としての歴史を追わなきゃいけないと思い込んでしまっている。そして西洋・東洋という歴史の分け方も、20 世紀半ばに実用的だったから広まったのです。でもグローバル化した今、これまでの歴史の捉え方は全然実用的ではありません。やっぱり時代に合うモノの見方をしていかないと。
日置 今に合った見方をつくっていくということですね。
北川 もちろんです。歴史から学ぼうとするなら、長い時間軸で歴史を捉えた上で、既存の年表から離れることです。人類の歴史はまっすぐで段階的なものではなく、何をするにしても三歩進んで二歩下がるような試行錯誤を繰り返してきたのです。そういう試行錯誤から何かを学ぶ。その学びには年表という直線的な時間軸や、西洋・東洋という既存の基軸に縛られない見方が必要です。そして、失敗したときに何かを取り戻そうとするような歴史があったり、大成功する陰には人の志や環境があったりするので、その時々の視点やつながりから学ぶことも多いのです。
白紙からつくることが苦手な日本人
日置 先ほど、日本企業のマネジメント層がすぐにケースや答えを求めたがるという話が出ましたが、実は若手も自分で考えたり想像したりする力に欠けるように見受けられます。たとえば「社会課題を挙げる」というお題を示すとGoogleで検索すればわかるようなものをエクセルにきれいに整理して持ってくる。作業する力としてはすごく優秀ですが、想像力やクリエイティビティが欠如している。これも結構危険だと思います。
北川 そうですね。クリエイティブになるにはどうすればいいのかを考えると、やはり、刺激が必要だと思います。インターネットって、すごくpassive(受け身)なんですね。だからもっと、外に出ていくべきだと思います。私はいつも学生に「外に出て白紙のものに書く練習をしなさい」と言っています。知ってることを型にはめるのは簡単ですが、反対に真っ白なものに何かを書くことは、すごく大変です。また、そのときには考え方を全部「世界基準にしましょう」とも言っています。日本では特に「ここは日本だから」「日本のオーディエンス」「日本の……」と考えるのを、まずやめましょうと。
日置 グローバルのなかでは、日本や日本人という既存の枠で捉える意味から見直さなければなりませんね。