ベートーヴェンのピアノソナタについて、忘れられない思い出がある。「ピアノソナタ全曲録音(全集)」のLPレコード(もちろんCDの時代ではない)が欲しくてたまらなかった学生時代の話だ。
当時はシュナーベル、バックハウス、ケンプ、グルダという大物ピアニスト4人の全集が売られていたのだが、もちろん貧乏学生の身分で全部は買えない。どれを買うべきか悩んだ揚げ句、無謀にも「そうだ、音楽評論家の吉田秀和さん(1913〜2012)に聞いてみよう」と思い立ち、返事の来る当てのない質問状を鎌倉のご自宅宛てに送ってみた。
するとどうだろう、驚いたことに1週間も経たないうちに返事が来たのだ。狂喜乱舞して封を開けると、中にはザルツブルクの絵はがきが封入されており、そこには小さな文字でびっしりと、ベートーヴェンの「ピアノソナタ全集」を選ぶうえでのアドバイスと、前述の4人のピアニストの特徴、感想が事細かに書かれていたのだ。
さらには吉田氏が最も好きなベートーヴェン弾きとして、当時日本では未知の存在だった英国のピアニスト、ソロモンの名が挙げられていたことも新鮮だった。このはがきをいったい何度読み返したことだろう。
「ベートーヴェンのピアノソナタ全部となると、どんなピアニストでも、どの曲についてもいちばんよい演奏をしているということはなくなり、それぞれ違う32曲にも上る音楽を1人の個性でまとめるとすればどうなるかという問題になるでしょう。だから、どうやってみても最良ということはない。とすれば、あとはどの曲を最も重要な柱と考え、それに照準を合わせて選ぶか、それとも、全曲を通して平均点の高いのを選ぶか、まったく自分の好みで選ぶか。この3つの態度が考えられることになります」。この的確なアドバイスと「感受性のうえで最も敏捷で知的」という評価にひかれて購入したのが、今も変わらず愛聴しているフリードリヒ・グルダの全集だ。
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