一昨年はロシア革命百周年。ロシア革命で生まれたのがソビエト連邦である。いわゆるソ連は、物心ついた時から存在していた。今その国はない。もはや歴史である。「ソ連史」という本すら、普通に出るようになった。
ソ連の崩潰(ほうかい)は1991年、筆者が大学院生のときで、もちろん実見している。すでに歴史学を志していたから、受けた衝撃も決して小さくない。ソ連・共産圏・東側の勢力がたちまち潰(つい)えるなど、夢にも思っていなかった。つくづく自分の無知を恥じ入るばかりである。
自然を人造に切り替えた
百年前の20世紀をどう見るか。人によってさまざまだろうが、ここでは人造国家の時代だと定義してみたい。19世紀、帝国主義に到達して世界を制覇したヨーロッパが第一次世界大戦で凋落し、主役はアメリカ合衆国とソビエト・ロシアになった。第二次大戦でその形勢が固まり、二大超大国の時代に入る。
米ソいずれも、多分に自然発生的な国家をベースにしながら、そこに生じた矛盾の解消をめざした人造国家である。最古がアメリカ、ソ連はもちろん以後の共産国家も、その例にもれない。
世界史上の大革命とは、自然を人造に切り替えようとした事業なのだろう。アメリカ独立革命・フランス革命・ロシア革命、いずれもしかり。そして現在、共和制をとっているという点でも、多くは共通する。
ヨーロッパで自然発生した君主制や資本主義・帝国主義は、あまりにも抑圧的、差別的だった。これを人為のコントロールで矯(た)めようとしてできたのが、民主主義や社会主義である。しかしそれも行き過ぎると、逆に抑圧に働いた。
東西冷戦を経て、ソ連は崩潰した。人造の破綻を白日の下にさらした瞬間である。かつてのソ連ばかりではない。国家の崩潰にまで至らなくとも、人造の無理は、随処に明らかである。移民にしても人種にしても、現代アメリカの抱える問題も、その根は深い。
だからといって、自然のレッセ・フェールでうまくいくほど、ナマの人間性は穏やかではない。そこで両者のバランスをとる必要がでてくる。世界史とはその試行錯誤の履歴だったといってよい。
皇帝へ進む中ロの指導者
現状で少しはマシに見えるのが、立憲君主制の国々だろうか。わが日本はいわずもがな、スコットランド独立やブレグジットなど、多事多難のイギリスも、どうにか無事を保っているのは、皇室・王室の存在によるところが大きい。自然にできた君主制と人為で造った立憲主義の均衡なのだろう。このシステムを再評価する向きも少なくない。
最近に顕著なのは、新規の人造が歴史の自然に回帰する動きであり、同じ流れとみられる。過日のロシア大統領選も、その代表例だろうか。得票率が全体の4分の3を越えたというプーチンの圧倒的な勝利を民主主義政体だという人は、やはり誰もいるまい。プーチンにはどうも、ツァーの面影がある。百年たっての本卦還(ほんけがえ)りなのだろうか。
わが中国もかわらない。習近平は国家主席を終身制に切り替えた。そこで「皇帝」になるつもりだともいわれている。こちらも袁世凱の帝制運動とその挫折から数えて百年あまり。一世紀の時を越え、あらためて歴史の意味を考えさせられるのは、どうやらロシア革命ばかりではなさそうである。






















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