100年の情熱を未来へつなぐ 日本大学理工学部 創設100周年
多くの先人たちが日本の未来につながる挑戦を続けてきた
日本大学理工学部の卒業生は各界で活躍しているが、その背景には、先人たちの大きな挑戦があったことを忘れてはならない。
理工学部の礎をつくった人物といえば、日本大学高等工学校の設置に関わり、初代校長に就任した佐野利器氏だ。1918年、日本工学会が工業教育調査委員会を設け、その委員だった佐野氏は、当時まったく新しい「高等工学校案」を提案した。23年に発生した関東大震災では、高等工学校の卒業生が復興事業の現場で大いに活躍し、評判が高まった。これを受けて、日本大学に工学部を設置するべきだとの声が上がり、28年4月、私立大学として2番目に、工学部(現理工学部)設置の認可を受けた。佐野氏は初代学部長に就任し、一貫して工学教育に力を注いだ。
佐野氏は、現在の建築基準法における地震に対する考え方にもつながる耐震基準「佐野震度」を提案し、東京駅の構造設計にも携わるなど、日本の建築構造学の基礎を築いた人物として評されている。
理工学部の飛躍を支えたのが木村秀政氏だ。52年にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本の航空活動が許可され、飛行機の研究が自由に行えるようになった。木村氏は機械工学科の主任教授となり、学科内に航空専修コースを設置した。
木村氏は57年には戦後初の純国産航空機「YS11」の技術委員長として尽力した。62年の初飛行後、同機は国内外のエアラインなどで広く運用された。一方で木村氏は、学生とともにさまざまな飛行機を開発した。2人乗りや4人乗りの軽飛行機を製作したほか、人力飛行機の製作にも挑戦し、66年2月に日本初(※)の人力飛行に成功した。さらに77年には世界記録を樹立(未公認)、2004年と05年には日本記録を更新した。
現在、最多優勝をほこる読売テレビ「鳥人間コンテスト」で学生新記録を樹立するなど、その魂は受け継がれている。
※一般財団法人日本航空協会発行『航空と文化』(NO.113)2016年夏号
伝統のエンジニア魂で、未来を変える研究に挑む学生たち
先人たちの「エンジニア魂」は、現代の学生にも受け継がれ、さまざまな成果も生まれている。
「宇宙エレベーター」は、赤道付近の上空3万6000kmの静止衛星軌道上にまで物資を運搬可能なエレベーターのこと。そんな夢のような話が現実味を帯びてきている。世界規模の「クライマー(昇降機)」の競技会には学生も参加し、優勝、準優勝をしている。また、海外の学生との共同研究による「惑星ローバー」の開発なども行っている。
実験室内に宇宙空間と同等のプラズマを再現し、これを観測する、「実験室宇宙物理学」の研究課題に取り組んでいる学生もいる。秒速500~1000kmで磁化プラズマを衝突させることのできる実験装置を開発(※)。装置内に超新星残骸中などに生じる「無衝突衝撃波」を形成、それを観測することで、宇宙線の加速メカニズムの解明に挑んでいる。
このほかにも日本大学理工学部では、「人工知能(AI)」「海洋再生可能エネルギー」「暗号理論」 「大型宇宙構造システム」「燃料電池」「ニューロチップ」「モーションキャプチャ」「スマートシティ」「次世代交通システム」「人工知能搭載マイクロロボット」「高効率クリーン燃料エンジン」「高機能分子・ナノ材料」「全地球航法衛星システム」など、幅広い学科、領域で、数多くの学生が未来を変える教育研究に挑んでいる。
※超音速でプラズモイドを衝突できるこの装置は、FRCと呼ばれる方式による高効率核融合発電の実現を目的に開発されたもので、日本大学理工学部と連携先である米TAE社が、それぞれ日米の実験拠点を形成している。