
ヒトの生物学。
ヒューマンバイオロジーの可能性
2011年度からスタートした、博士課程教育リーディングプログラム。文部科学省の厳しい審査をパスしたさまざまなプログラムが走り始めているが、その中でも、オリジナリティの高さと幅広い学際的なカリキュラムで注目されているコースがある。筑波大学のヒューマンバイオロジー学位プログラムだ。
“ヒューマンバイオロジー”とは聞き慣れないフレーズだが、どのような教育、研究をするのだろうか。プログラムコーディネーターの渋谷彰教授の研究室に伺った。
「ヒューマンバイオロジーとは、これまでの学問領域を超え、ヒトをほかの生物と相対化して生物の一種であると考え、その生命の恒常性維持と継承のメカニズムを、変遷する時の中で捉えようというプロセスそのものです」。
実際、伝統的な医学にとどまらず、生物学、コンピューターサイエンス、計算科学、物質科学などのさまざまな学問領域が、課題解決のために総動員される。
「ヒトの生物学という、新たな分野と言えるでしょう。ヒューマンバイオロジーにとって、医学的な知識や概念は欠かせませんが、これからの医療はヒトの体のみを対象としても根本的な解決には近づけません。たとえば、数理科学です。最近、生物学や医学の領域に進む学生が数学や物理学といった数理科学をあまり学んでいない傾向がうかがえますが、実は、数理科学こそ生物学や医学で非常に役に立つものなのです。ヒューマンバイオロジーは、生物学や医学の研究に数理科学の考え方を導入し、さまざまな問題に対処することを目指しています」。
どういうことか。
複雑な社会問題を解決できる
専門知識を備えたリーダーを養成
渋谷教授はインフルエンザの感染症研究を例として挙げて説明する。
インフルエンザウイルスは、水鳥を自然宿主として、ヒトを含むほかの動物種に感染した場合のみ、病気を引き起こすという。だが、マウスで高い病原性を示すウイルス株でも、ヒトでは病原性を示さない例も多い。そこで、免疫応答や生理機能の変化など、細胞や組織の感染の応答を計算機上でモデル構築し、今後流行するウイルスを予測してワクチンを作成することが可能になるという。
北海道大学医学部医学科卒、2003年から医学医療系教授。専門は免疫生物学、分子免疫学。
「現実の社会での最適な対応方法を考えるために、コンピューター上で多くのヒトにウイルスを感染させるなど、さまざまなシミュレーションを繰り返すのです。ここでは、高い数理科学の知見やそれを学んだ経験が大きな意味を持ってくるでしょう」。
ほかにも、新薬の開発プロセスでは、医学と動物や細胞を用いた生命科学研究から得られた結果を統合し、そこに数理科学の考え方を導入することによって、さまざまなパラメーターの変化を考慮しながら最先端のシミュレーションが可能になる。伝統的な学問領域が融合することによって、新しい価値が創出されるのだと理解できる。
そればかりではない。
実際のインフルエンザウイルス対策では、拡散のシミュレーションに加え、拡散した場合の検査体制やその際に対応する行政機関の動き方、規制などのあり方まで実にさまざまなハードルを超えていかなくてはならない。しかも、感染症対策では複数の国家、地域を巻き込んだ対策を求められることも想定される。たとえば、新興国で拡散した場合に有効な手立ては何かなど、考えることは山ほどあるだろう。
「現実のインフルエンザウイルス対策とは、そうした問題に一つひとつ対処していくことなのです。したがって、専門知識を身に付けているだけでは無理でしょう。こうした複合的な問題を解決するには、専門知識に加え、完結力・突破力・目利き力、そして何よりもリーダーシップを発揮する強い人間力が不可欠となります。本学のヒューマンバイオロジー学位プログラムは、そうした人材の育成を目標としているのです」。
そう、革新的かつ横断的な学問であるヒューマンバイオロジー学位プログラムが目指すのは、「多様な学問領域を学び、世界中で起きている現実の社会問題に対処することができるリーダーを育成すること」と渋谷教授は言い切る。
社会のニーズを意識した
実践的なカリキュラムを用意
具体的には、どんなカリキュラムが用意されているのだろうか。
ヒューマンバイオロジー学位プログラムは、5年一貫の博士課程大学院コースで、教育課程は、1・2年次と3~5年次で分けられている。ちなみに、1・2年次に義務付けられている単位修得数は60。通常の医学部が4年間で30~35単位を修得することを考慮すると、かなりハードな内容だ。
授業を担当する教員は、学内からは医学、生命科学、数理科学(数学、化学、ケミカルバイオロジーほか)、コンピューターサイエンスの各分野から73名、さらに、独法研究所と企業から7名、および他大学の教員33名が参画し教員団を形成。他大学の教員には、提携する海外の大学の教員が31名含まれている。一方、学生数は、1学年定員が20名。つねに密度の濃い授業が行われている。
「カリキュラムの特色のひとつとして、リサーチラボローテーションがあります。新入生の場合、異なった分野の4つの研究室に1週間ずつ滞在して実習します。コンピューターサイエンスが専門だった学生が解剖を行うといった経験ができるのです。視野を広げながら、自分の研究にも生かせる。当然、興味がわいた研究は継続して、深く学ぶことができます」と渋谷教授は語る。
また、社会のニーズに基づいた研究を進めるには、民間企業の協力は不可欠。15の民間企業と3つの独法研究所から教員が参加し、「ビジネスリーダーセミナー」、「起業家マインド育成」、「学内企業ラボ実習」、「海外企業におけるインターンシップ」など、アントレプレナーシップにもつながる組織力や挑戦力を養成する授業が用意されている。
積極的な留学も励行されており、それは単に海外の大学で授業を受けるというだけではない。
「学生の自発的な企画・提案に基づいて、先進国の教育研究を体感するとともに、開発途上国の教育研究の創出プロセスなどにもどんどん参加してもらいます。こうした武者修行型の学修を体験することで、リーダーとしての突破力や完結力を養成してもらいたいのです」と渋谷教授はほほ笑む。

生活費を含めた学資が支給される
給付型プログラム
さらに特筆すべきは、給付型プログラムであるということ。5年間にわたって、すべての学生に月額16万円(1年次は18万円)が給付される。そのほかに、海外研究室ローテーションや海外インターンシップといった留学に対しても、海外渡航支援として学費が支給されるという。学生が全力で学問に打ちこめる環境が整っているのだ。
授業はすべて英語で行われ、学生同士の会話もほぼ英語。学生の出身地も学習歴も実に多様だ。「中国、韓国、台湾、ベトナム、米国、チュニジア、モロッコ、トルコから高い向学心と熱意を持った学生が集まっています。日本人学生は、とても刺激を受けているのではないでしょうか。また、日本人学生を含め、出身学部もバラエティに富んでいます。医学のバックグラウンドがなくても問題はまったくありません」と渋谷教授。授業をのぞいてみると、学生たちはみな真剣に取り組んでいるが、リラックスした雰囲気で授業は進んでいく。実は、1年次はキャンパス内での寮生活が義務付けられている。生活のルールを決める、ちょっとしたイベントを開く、もちろん、講義内容に関する相談事など、日々、生活レベルでの国際コミュニケーションが視野を広げるとともに、刺激的な異文化交流が気づきのきっかけを与えているはずだ。
日本の大学院の新しい未来をひしひしと実感する。
VOICE

「大学では応用生物科学部に所属し、生体内の糖鎖を有機合成する研究をしていました。ここのプログラムは、研究はもちろんのこと、海外インターンシップや適正技術教育を通して自分の関心のあるテーマに取り組めることに大きな魅力を感じています。今は、分子シミュレーションを用いて、生体内の化学反応など、生体システムを解明することに関心があります」

「大学では分子生物学と遺伝学を研究していました。ハーバード大に留学したほか、MITでインターンシップを経験しましたが、ここのラボローテーションの仕組みはほかに類がなく、自分のキャリアを広げる上でとても有意義なシステムだと思います。教員も学生もみな一生懸命で、刺激を受けることが多く、環境は抜群です」