三重県「売春島」は、今どうなっているのか 的矢湾に位置する離島「渡鹿野島」の実態

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"売春島"は、サミット会場になった賢島(かしこじま)にほど近い位置にある。それにより複数の雑誌媒体などが"売春島"とサミットを関連させ、いまだ売春産業が続くこの島の現状をルポし、それと同時に行政側の隠蔽体質を浮き彫りにした。

しかし、それらの報道は、当事者たちを置き去りにした問題提起に過ぎなかった。僕が8年前から数回に亘ってこの島をルポしてきたように、年々疲弊する島の現状を伝える。観光業を全面に押し出しクリーン化を進める流れと、対極にある売春産業、その光と影の上澄みだけをすくい取り"過渡期"と論じる。それ以上でも、以下でもなかったのだ。
これが僕を突き動かした。(28ページより)

かくして著者は、サミットが終わった同年の12月から取材を開始。「走りがね(船人相手の女郎)」が存在していた江戸時代に端を発するこの島の売春事情が、終戦後にも引き継がれたことを知る。

次いで、四国や九州から移住した「4人のオンナ」が、スナック型の置屋を興隆させ、それが渡鹿野島を売春島として認知させることにつながったことを突き止める。

そして以後も、当時を知る関係者をひとりひとり訪ね、ずっと明らかにされなかった事実をコツコツと解明していく。そのプロセスは「コツコツと」と表現するにふさわしく、別な表現を用いるなら、とても手のかかるもの。しかしその甲斐あって、なかなか明らかにされることのなかったこの島の真実が、少しずつ明らかになっていく。

次から次へと売春婦がやってきて…

「(前略)もう、どんだけ儲けたか。最盛期、島では『ドラム缶から札束が溢れとる』って噂やったから。
もうお客さんが並んでいる状態やったからさぁ。(中略)次から次へと売春婦がやってきて、女のコの部屋が足りず民家の一間も借りとるほどやったで。(中略)家賃払えばみんな貸してくれたんや。しかも安い値段やないと思うで。
だから大通りは人が歩けんほどやった。肩がブツからずに歩けんかったほど湧いとった。(181ページより)

これはチーママとして置屋を切り盛りしていた"A組下部組織組長の姐さん"による証言だが、決して誇張された話ではないようだ。絶頂期だった80年代にはパチンコ屋、ストリップ劇場、ホテル、喫茶店、スナック、居酒屋等がひしめきあい、一大レジャーランドの様相を呈していたというのである。人口200人程度の小さな離島であることを考えると、驚きを隠せない話である。

しかし時の経過とともに、その"観光産業"は衰退していくことになる。暴力団とつながりを持つ置屋の女将が経営する大型ホテル「つたや」の成功で島は絶頂期を迎えるも、2000年代に現れた自称「経営コンサルタント」の"事件屋"が女将に取り入り、その財産を根こそぎ奪ったのである。

売春島は、こうした事件屋がつけねらうほど売春産業で隆盛し、なかでも一人勝ち状態だった『つたや』がターゲットにされた。
そして『つたや』の崩壊により、さらに島の凋落が加速したのは、揺るがぬ事実のようだ。当然である。島の顔として君臨していた大型ホテルが一つ、もぬけの殻になってしまったのだ。(161ページより)

そんな渡鹿野島では現在、浄化運動が推し進められている。浄化の流れは行政指導ではなく、旅館組合など島民たちが1990年ごろに立ち上げ、それに行政が乗った形だという。つまり、まだ売春産業が成り立っていた時期からそういう動きがあったことになる。

次ページ売春島の景気は凋落し、いまや風前の灯となっている
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