世界を白い輝きで満たした、
ノリタケ創業者の「フロンティア・スピリッツ」
日本初のディナーセット、「セダン」とは?

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「セダン」を生み出したものづくりの精神は
脈々と今も受け継がれる

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森村市左衛門(右)と豊(左)。1889年(明治22年)撮影

1889年(明治22年)、パリ万国博覧会を視察した市左衛門と豊は、ヨーロッパ各国の優れた陶磁器の完成度と、美しい画付けに驚かされるばかり。パリ郊外の近代的な陶磁器工場を見学し、技術の遅れを痛感する。当時、森村組で仕入れていた日本の陶磁器の生地はヨーロッパの物と比べて、純白ではなく、灰色に近いものであった。

ニューヨークの取引先の大型専門店から、「今後も陶磁器を扱うのであれば需要の多い洋食器(ディナーセット)を扱うべきであり、食器に適した純白の生地で製品を作るべきだ」とアドバイスを受けていたこともあり、1894年(明治27年)、市左衛門はディナーセットの製造のための近代的な大規模工場の建設を決意した。

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創業当時の本社工場

その10年後、1904年(明治37年)に、名古屋駅に近い則武の地に工場を建てるとともに日本陶器合名会社を設立。ブランド名であり、現在の社名でもある「ノリタケ」はその地名に由来している。市左衛門が65歳の時だった。

新工場では早速ディナーセットの製造に取りかかった。前菜やスープ、パン、魚や肉、デザート、食後のコーヒーといったコース料理などに対応するアイテムが揃い、絵柄も美しく統一された洋食器セット。パリ万博以来、ヨーロッパ各地の陶磁器工場に技術者を派遣するなど、白色硬質磁器の研究を進めていたが、その生地でディナーセットの主役ともいえる、直径25cmのディナー皿を作ることが、いぜんとして難しい。形を保とうとすれば色が悪くなり、白色を保とうとすれば形が崩れてしまう。形状の保持と純白さの両立が難題だったのである。

試行錯誤の末、良質な原料を使い、原料の粒子を細かくし、土をよく寝かせる、という3つのアドバイスをドイツの粘土工業化学研究所から受け、皿の底中央部を厚くすることでゆがみを解消。ついに、1913年(大正2年)、紛れもない純白の25cmディナー皿が生み出された。ディナーセットを扱うべきとアドバイスを受けてから実に20年の歳月が流れていた。

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ディナーセット「セダン」

こうして完成した日本初のディナーセットは「セダン」と名付けられ、翌年に20セットがアメリカへと輸出。以降ディナーセットが主力製品となり、次の年には1万セット、その次の年には3万セットと年々増加し、「ノリタケ」はやがて世界の食器ブランドへと成長してくことになる。

「国のために」と、森村市左衛門が始めた事業は、世界的な洋食器ブランドを生み出しただけに留まらず、現在は食器製造で培った技術を核として、自動車・鉄鋼の基幹産業から電子部品に至るまで、幅広い産業分野に発展。現在まで、ノリタケのものづくりのDNAは脈々と受け継がれている。

近代陶業発祥の地ともいえる、ノリタケ創業時の赤レンガ建築の工場が立つ場所は現在整備され、複合施設「ノリタケの森」になっている。その中にある「ノリタケミュージアム」では、1914年の国産第1号ディナーセット「セダン」が陳列され、今も白く美しい輝きを放っている。