世界を白い輝きで満たした、
ノリタケ創業者の「フロンティア・スピリッツ」
日本初のディナーセット、「セダン」とは?
「日本の金」を取り戻す決意と、
福沢諭吉の助言
明治維新の約30年前、1839年(天保10年)。江戸・京橋の武具商の長男として生まれた森村市左衛門。呉服店の見習い奉公を経て家業を継ぐが、二度にわたって火災に遭い、家財を失うなど苦難の連続だった。
時代とともに、市左衛門の人生が大きく動き出すのは1859年(安政6年)、彼が20歳の時。横浜港が開港するとすぐに、懐中時計や遠眼鏡などの舶来雑貨を仕入れて販売するようになった。
その得意先として、市左衛門が出入りを許されていた大名家の一つが、1858年(安政5年)に調印された日米修好通商条約の批准書交換のため、幕府がワシントンに派遣する使節団の正使に当たった、新見豊前守。市左衛門は人柄を見込まれ、アメリカへ持参する土産物の調達と、渡航費の両替を任される。
渡航費は3万両と大金で、小判が大半。運送のために30人を雇って横浜へ運び、当時の国際通貨であったメキシコ銀と交換した。
そこで市左衛門が目にしたものは、山吹色に輝く美しい日本の小判に比べ、すすけた色合いの粗悪なメキシコ銀だった。さらに交換した銀の重さを計測してみても量が不足していて釣り合わない。よくよく調べてみると当時の国際為替相場は日本に非常に不利で、アメリカでは金が高く、銀が安いこともわかった。
大いに疑問を感じた市左衛門は、別の出入り先の中津藩奥平家で知り合った、ある学者に相談をする。その人物こそ、福沢諭吉(当時27歳)である。
「たしかに今のままでは日本の金はことごとく海外へ流出するだろう。金を取り戻すには輸出貿易以外に方法はない」と、福沢は助言する。これを聞き、市左衛門は、「輸出貿易が国のためになるからには、自分がその先駆者になろう」と決心を固めた。
市左衛門の胸の中で熱く燃え上がる、海外貿易への夢。その夢の実現には、キーパーソンとして、身近な人物が大活躍することになる。