(第3回)未病第一のお話・その3

山崎光夫

 前回、ある編集者がニューヨークに一年間滞在しているあいだに、好物のステーキを毎日食べて結果的に体重が五キログラム減った話を紹介した。アメリカのステーキは日本牛と違って固い。肉質の固いステーキの場合、よく噛まねば飲み込めない。飲み込むために噛んでいると必然的に唾液が出て、消化がよくなるのである。この三十代の編集者はアメリカへ出かけ、いわば“ステーキダイエット”して帰国したのである。

 これより数年前、わたしもよく噛む食事を習慣づけ、三年間で体重を八キロ減らした経験がある。編集者もわたしも唾液を出して体重が減った。これは、“唾液ダイエット”であり、“ご自分エステ”である。しかも、危ないサプリメントと違って副作用なしで無害安全。誰でもすぐ実行できる資金不要の格安ダイエットといえる。

 これは、消化器専門の外科医にきいた話--。手術を受けた患者が普通食になってどんな食べ方をするかを看護師ともども観察した。するとほとんど例外なく三、四回咀嚼しただけで飲み込んでいたという。十回以上噛む患者は皆無だった。
 外科医の結論--。
「噛まない食事をする人が消化器科の世話になる」
 よく噛む食事を心がけるだけで、かなりの確率で胃や十二指腸、大腸の手術から免れるのなら、病気などしていられない人にとってありがたい話である。

 外科医はさらに言う。
「食事は楽しんで摂ってください」
 わたしも早速実行に移してみたが、よく噛む食事の実行は案外難しい。適当なところでつい飲み込んでしまうのである。管理栄養士にいわせると、一口三十回噛むのがよいらしい。わたしの場合、十回を越すか越さないかの回数だった。

 意識しないとよく噛む食事はなかなかできない。早食いを防ぐ方法はないものか……。考えてたどりついたことがある。箸置きである。箸置きの効用は絶大だった。箸を手から離すとその分、咀嚼回数が増え、噛む時間が長くなる。早食い防止、よく噛む食事の習慣には、まず、箸置きがおススメである。茶碗に箸を置く「渡し箸」はもともとマナーに反するから、ここは箸置きを用意したい。贅沢をしなければ百円でも買えるのが箸置きである。百円で消化器科からサヨナラできるなら安いものだ。

 漢方医学の理論に、人体をつかさどる基本として「気・血・水」の発想がある。この三つのバランスが崩れると病気になる。唾液は「水」にかかわっている。
 唾液は浸透圧の高い液体--つまり血管壁からどこへでも進入して体全体を潤す作用がある。分泌される唾液の量が多ければ多いほど体は潤いを増す。
 その唾液は、口腔内の耳下腺、顎下腺、舌下腺の三個所から分泌される消化液で、ホルモンや消化酵素を含んでいる。食事中はもちろん、人と会話したり、歌を歌ったり、ガムを噛んだりすると分泌される。梅干しや酢の物などの酸っぱいものを想像するだけで、食べればなおさら分泌される。

 唾液には一時期、不老ホルモンと騒がれたパロチンが分泌されている。現在でも錠剤として老人性白内障や難治性の一部皮膚疾患に使われている。ホルモンは生命機能を微妙に調整している物質である。ふつう血管内で分泌されるが、唾液ホルモンだけは唯一の例外で、口腔内という血管外から分泌される。
 こうした効用を知るにつけ、唾液は「多益(たえき)」であると思う。未病第一を心がける者にとって強い味方である。
山崎光夫(やまざき・みつお)
昭和22年福井市生まれ。
早稲田大学卒業。放送作家、雑誌記者を経て、小説家となる。昭和60年『安楽処方箋』で小説現代新人賞を受賞。特に医学・薬学関係分野に造詣が深く、この領域をテーマに作品を発表している。
主な著書として、『ジェンナーの遺言』『日本アレルギー倶楽部』『精神外科医』『ヒポクラテスの暗号』『菌株(ペニシリン)はよみがえる』『メディカル人事室』『東京検死官 』『逆転検死官』『サムライの国』『風雲の人 小説・大隈重信青春譜』『北里柴三郎 雷(ドンネル)と呼ばれた男 』など多数。
エッセイ・ノンフィクションに『元気の達人』『病院が信じられなくなったとき読む本』『赤本の世界 民間療法のバイブル 』『日本の名薬 』『老いてますます楽し 貝原益軒の極意 』ほかがある。平成10年『藪の中の家--芥川自死の謎を解く 』で第17回新田次郎文学賞を受賞。「福井ふるさと大使」も務めている。
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