池袋はいつから「ダサい」と呼ばれ始めたのか 「ダサさ」は街の強み、消し去ってはいけない

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つまり、池袋は新宿・渋谷のようなイメージ更新が面的に行われなかった。その結果、「地味」「ダサい」という言葉が池袋を語るものとして1970年代からメディアで見られるようになったのである。

加えて高度経済成長期には池袋から埼玉県方面へと延びる、西武池袋線や東武東上線沿線で大規模な団地開発や宅地化が進んでいった。結果としてこの2路線の沿線住民は池袋に出て買い物をするようになる。そのため、「埼玉のセンター」という言葉もメディアで目立つようになっていった。

さいたま市在住で鉄道史を研究する枝久保達也さんは「池袋には東武東上線、西武池袋線が乗り入れていたことに加え、1980年代には埼京線が開業し、2004年には湘南新宿ラインが増発し、終日にわたって運行されるようになった。これにより、埼玉県民にとってはどんどん池袋が身近になった。いまも埼京線は夜になると池袋発の電車が多く、個人的にも新宿よりも池袋のほうが行きやすい印象が強い」と語る。

多様性を持った都市「池袋」の誕生

1980年代以降は「サンシャインシティのある」東口、「駅近くに風俗街のある盛り場」の西口というイメージがつくようになった。そこに新たに加わったのが「国際化」だ。

池袋の繁華街は概ねこういう狭くて暗いイメージだった(筆者撮影)

その担い手は中華系の人々である。池袋周辺に発達した家賃の安い木造賃貸アパートは多くが取り壊されずに密集しており、そこへ中国大陸から一獲千金を夢見てやってくる中国都市部の青年たちが集まってきたのだ。

そして池袋には中華系のコミュニティが発達し、北口に中華系の店が多く立地するようになる。2000年代には「東京中華街構想」というのも浮かんだ。西口・北口は風俗店が立地するのに加えて中華系住民の流入と中華街の発達があり、さらに1995年前後には西口公園を中心にナンパの聖地になった。

こうして、池袋は「猥雑なまち」というイメージが強化されることとなった。しかし、裏を返せば「多様なもの」を受け入れていたともいえる。

「多様なもの」の受け入れは西口に限らない。東口には、サンシャインシティ周辺に2000年代から若い女性をターゲットにしたマンガ・アニメショップが集積する場所が生まれた。「乙女ロード」と呼ばれ、サンシャインシティ内のホールでも同人誌の即売会が定期的に開かれている。このように、池袋は「多様なものが混在する」という都市としての性格を着実に備えていったともいえそうだ。

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