53歳「絵の天才」と呼ばれる男がなお抱く渇望 やりたいことと適性の一致は幸運だった

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高校生活は楽しいことばかりだった。デザイン科目の授業は半分で、もう半分は普通科の授業だったが、それでも楽しかった。

普通の学校だと、逃げ場所はノートの片隅の落書きだけだけど、デザイン科はデザイン棟に行ったら絵が描ける。もちろん先生にも怒られない。まさに天国だった。高校を卒業したら、すぐに東京に行ってプロになろうと思っていた。しかし先生に止められた。

「実力的にはまだまだプロのレベルじゃない。専門学校に行ったら、先生がたはプロの現場で仕事をしている場合が多いから、仕事がどこから来て、どこに行くのか、それを見ておくのがよいのではないか?」と忠言された。その意見が腑に落ちたので親に「申し訳ないが専門学校に行かせてくれないか」とまた頼み込んだ。東京で試験がない専門学校を探したら、阿佐ヶ谷美術専門学校が見つかった。

片道2時間半、往復5時間の通学

ちょうどその頃、父親が仕事の関係で単身関東に来ていたので、父親が千葉に家を用意して親子3人で住むことになった。

千葉の田舎から専門学校に通うことになったが、片道2時間半、往復5時間も通学時間がかかった。

「1学期の間は通ってみたけど、『無理だ!!』ってなって、そこからは泊まり歩きました。同級生の家、学校の先生の家、先輩の家……って50軒超えるまでは数えてました。無自覚に厚かましかったんです(笑)」

親は最初のうちは「なんで帰ってこないの!!」と怒っていたが、「大丈夫、大丈夫」となんとなく丸め込んだ。そのうち数カ月に1回しか帰らなくなった。定期代の代わりに、月4万円の食費をもらった。

専門学校2年生のあたりから、カンプの仕事をもらい始めた。カンプとは、広告のプレゼンテーションで仕上がりがどうなるのかをわかりやすく描いたスケッチである。当時はインターネットもなく、広告業界も活気があったので、カンプ仕事はたくさんあり、それだけで食べている人もいた。学生でありながら、月に4万円稼げるようになった。

「あるとき、ハッと『家を借りられる!!』って気がついて、そのまま不動産屋に駆け込んで、東高円寺に家賃1万5000円の、ちょっと傾いた4畳半のアパートを借りました」

学校にあった廃棄予定の製図机を拝借して、友達が子どもの頃に使っていたという赤いいすをもらい、実家から布団を車で運んでもらって、遅ればせながら1人暮らしを始めた。

次ページ親からおカネをもらってなんとか生活できるレベルに
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