出世の法則!ホンダ創業者は愛嬌の塊だった 宗一郎を取材した最後の記者が感じたこと
「経営の神様」といわれた松下幸之助は、人を評価する時にどのような見方をしていたか―。松下電器の役員だった数人に聞くと、「運と愛嬌」という単純明快なフレーズに収斂されるようでした。幸之助の面接を受けて採用された人は必ず、こう言われたそうです。
「君は、運と愛嬌がありそうやな」あるいは部下を部長に昇格させるにあたり、「運と愛嬌のある奴にしろよ」と、念押しされたといいます。
筆者は松下幸之助を取材する機会は残念ながらありませんでしたが、「愛嬌」ある名経営者となると、二人の顔が思い浮かびます。その一人は、松下幸之助と並ぶ立志伝中の人物、本田技研工業(ホンダ)の創業者である本田宗一郎です。
宗一郎を取材した最後の記者は自分である、と筆者はひそかな自負をもっています。話は彼が亡くなる数カ月前の1991年春にさかのぼります。筆者は新聞社を「辞めるべきか、辞めざるべきか」と4年間悩んだ挙句、最終的に気持ちの整理がついたときでした。
その頃、親しくしていたホンダの広報部長と飲む機会があり、正直に辞める決意を固めたことを話しました。
本田のおやじさんに会ってみたい?
事前に打ち明けたこちらの誠意が通じたのか、それともフリーになって苦労するであろう将来を哀れんでくれたのか、広報部長は「よく決断しましたね。できることはさせてもらいますよ」と前向きに答え、思いも寄らぬ話を切り出しました。
「本田のおやじさんが新車発表会に出てくるんだけど、会ってみたいと思う?」「えっ、本田さんに会えるの?」あまりに唐突な話で、すっとんきょうな声でこう聞き返していました。なぜなら、本田宗一郎は病床に伏していて、ほとんど外出もままならないと聞いていたからです。記者が集まる発表会の場で会えるなどとは、夢にも思っていませんでした。
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