1800万円の腕時計は、ほぼ手仕事で作られる 若き「独立時計師」が目指す"時計の極み"

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もともと職人気質の菊野は、時計のことを知れば知るほどに、精緻な構造や精巧な部品に魅了されていった。そうして時計への想いを募らせていたある日、雑誌に載っていたひとつの記事が、人生の針をカチッと動かした。

部品ひとつ、手に取ったことがなかったのに

「独立時計師という人がスイスにいて、個人で時計を作って生計を立てているという記事を読んで、時計って一人で作れるのか! ということが衝撃的でした。僕は、何かモノを作りたいと思って就職したとしても、すべてをひとりで作る仕事なんて世の中にほとんどない、レゴと違って大人のモノづくりの世界は歯車の一部に過ぎないと思っていたんです。だからすぐに、この仕事は面白い、僕も独立時計師になりたい! と思いました」

この時はまだ、時計の内部の機構に触れたこともなかった。部品ひとつ、手に取ったことがなかった。それでも、独立時計師になりたいという気持ちにあらがえず、「独立時計師になる」と正直に告げて辞表を提出する。そんな職業の存在すら知らない上司や同僚からは、大丈夫? 食っていけるの? と質問攻めにあった。実は、菊野もどうやって独立時計師になれるのかわからなかったが、自衛隊での4年間の日々が、この決断を後押しした。

「自衛隊では、死の危険を感じるような訓練はありませんが、死について考える機会は増えます。例えば、僕が整備している銃が暴発したら、誰かが死ぬかもしれない。それは優秀な人も、若い人も関係なくて、運ですよね。特別な人なんていない。だから、自衛隊で働くようになってから、いつ、何が原因で死んでもおかしくないという思いがずっとありました。そう考えると、一度しかない人生だし、やりたいことをやった方が良いだろうと思ったんです」

一度きりの人生を悔いなく生きようという言葉はよく耳にするが、菊野の場合、日常的に銃に触れることで、より強い危機感と現実感を伴っていたのだろう。「有事でもない限りは安泰」という自衛官を辞し、道なき道へ一歩を踏み出した。

時計の修理を学ぶ学校に入学

2005年春、渋谷。

北海道から上京した菊野は、時計の専門学校に通い始めた。当時、時計の作り方を教えている学校が日本にはなかったため、時計の修理を学ぶコースに入った。

学校は3年制で週5日、朝から夕方までみっちり授業がある。時計の歴史や理論、外装の知識、時計の分解、オーバーホールする作業などを学ぶのだが、日が経つにつれて、菊野は「ひとりで時計を作れる気がしない」と思うようになっていった。

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