(第20回)人の死の扱われ方・その4

山崎光夫

 警視庁の検死官だった芹沢常行氏がいつも口にしていたのは、
 「完全犯罪は許さない」
だった。
 これが芹沢常行氏の信念である。徹底して検死するのも、完全犯罪をもくろむ殺人犯人の野望を打砕くためである。
 芹沢常行氏は検死の7つ道具を持っている。ピンセット、メジャー、小型拡大鏡、数珠、白手袋、自家製検死ノート、メモ帳の7点を鞄に納めて現場に急行する。

 このうち、数珠と白手袋は実際には使用しない。検死を始める前に必ず合掌するものの、数珠は使わない。
 「仏道をわきまえていませんから、ホトケさんの前で数珠を使うのは礼を失するような気がします」
 芹沢氏流の哲学といえる。鞄の数珠を思いつつ手を合わせるのである。

 また、白手袋も使ったためしがない。水死体であれ腐乱死体であれ、どんな死体に対しても、検死は必ず素手で行なう。検死官は例外なく手袋をはめて検死にとりかかったものだが、芹沢氏ばかりは違うのである。
 「手袋を使うと踏み込んだ検死ができません」
 完全犯罪を防止するには素手しかないという。これまた芹沢氏流の哲学である。
 今日では感染の恐れがあるためゴム手袋の着用が義務付けされている。

 あるときわたしは芹沢氏に検死の中で難しい死体は何かときいてみた。
 「溺死体と焼死体ですね」
 ほぼ即答に近かった。この2つは検死官泣かせのようだ。特に、溺死が難物だという。
 人が海や川、風呂などで溺死した場合、次のような経過をたどる。まず、水の中であえぎ、1分ほどで呼吸が困難となり、鼻腔や咽頭に水が入った刺激で心臓は停止して、ショック状態に陥る。やがて痙攣(けいれん)もおさまり、仮死状態が続く。3分を過ぎるあたりから、口を大きく開き、鼻翼を広げた終末呼吸期を迎え死に至る。水中に約4~5分いると死亡してしまう。ふつう肺胞中にまで水が浸入した場合、たとえ救助されても救命はかなり難しいとされる。

 わたしの知り合いに、子どもの頃川で溺れた経験のある者がいる。その時、偶然近くにいた人に助けられたものの意識はなかったという。溺れて助けられるまで5分前後だったというから、生き延びたのは幸運というしかない。彼は、人生、紙一重だと常々言っている。

 溺死した場合と死後水中に投じられた死体とでは、明らかな違いがあらわれる。生きている人が水中で死んだ場合は、鼻や口のまわりにカニが出す泡のような泡沫が出ているものである。この泡を見逃してはならない。ただ、水死体の腐敗が進むと、腐敗ガスが体内から出てきて鼻や口に泡が出てくる。泡沫をどう鑑別するかが大問題となる。

 現場で死体を見ただけでは自殺か他殺かわからないものである。
 「百の死体には百の検死があります。一つとして同じ死体はありません」
 自戒をこめた芹沢氏の言葉である。3000の変死体を見た氏は3000種類の検死を体験したのである。

 この芹沢氏、意外にもあの『3億円事件』(昭和43年12月10日発生)の現場に真っ先に駆けつけ克明にメモを残している。だが、身分は検死官ゆえ捜査陣からははずれた。わたしは拙著にそのノートを再録した。芹沢氏が、この事件を担当して検死で見せる完全犯罪を許さない綿密さを発揮していたなら、必ずや真相を解明したに違いないと思え、惜しくてならない。 “検死の神様”“スッポンの芹さん”の全人生を俯瞰したい向きは、拙著『東京検死官』(講談社文庫)を手にとって見ていただきたい。
 その芹沢氏は病死ゆえ、検死官のお世話にならなかった。人の死にざまはいろいろだが、できれば検死官に見てもらうような死に方はしたくないものである。
山崎光夫(やまざき・みつお)
昭和22年福井市生まれ。
早稲田大学卒業。放送作家、雑誌記者を経て、小説家となる。昭和60年『安楽処方箋』で小説現代新人賞を受賞。特に医学・薬学関係分野に造詣が深く、この領域をテーマに作品を発表している。
主な著書として、『ジェンナーの遺言』『日本アレルギー倶楽部』『精神外科医』『ヒポクラテスの暗号』『菌株(ペニシリン)はよみがえる』『メディカル人事室』『東京検死官 』『逆転検死官』『サムライの国』『風雲の人 小説・大隈重信青春譜』『北里柴三郎 雷と呼ばれた男 』など多数。
エッセイ・ノンフィクションに『元気の達人』『病院が信じられなくなったとき読む本』『赤本の世界 民間療法のバイブル 』『日本の名薬 』『老いてますます楽し 貝原益軒の極意 』ほかがある。平成10年『藪の中の家--芥川自死の謎を解く 』で第17回新田次郎文学賞を受賞。「福井ふるさと大使」も務めている。
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