そんな惨めな思いに苦しめられながらも、淀殿が生んだのが、鶴松である。秀吉が53歳、淀殿が21歳のときの子どもだ。
だが、生まれてからも周囲の目は冷ややかなものだった。宣教師のルイス・フロイスは著書『日本史』で、次のように記録している。
「秀吉には子どもはただ一人、鶴松がいるだけだったが、多くの者は、もとより彼には子種がなく、子どもをつくる体質を欠いているから、その息子は彼の子どもではない、と密かに信じていた」
淀殿が鶴松とともに大坂城に住むことになると、周囲の風当たりはますます強くなり、取り巻く女性たちから、やっかみを受けたようだ。その後、天下統一に向けて、小田原攻めが決まると、秀吉は淀殿と鶴松をいったん聚楽第へと移し、その後、淀殿だけを小田原に呼んでいる。
淀殿にとっても秀吉にとっても、この鶴松こそが希望だったことだろう。
わずか3歳で鶴松は病死
しかし、淀殿には、またしても残酷な運命が待ち受けていた。天正19(1591)年8月5日に鶴松がわずか3歳で病死してしまったのだ。
秀吉の憔悴ぶりは目も当てられないほどだったという。それも当然のことだ。実は同年の1月22日に弟の秀長が死去していた。秀吉は大切な家族を立て続けに亡くしたことになる。
淀殿も深い悲しみに暮れるなか、秀吉は甥の秀次に関白の座を譲っている。もう自分には跡取りができないだろうと、諦めたのである。
だが、その後、淀殿は再び懐妊。生まれた子は「拾丸」と名づけられた。のちの「秀頼」である。秀吉の調整役だった弟の秀長はすでにこの世になく、思わぬ後継者の誕生により、秀次の人生は急展開することとなった。
【参考文献】
松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第1期 第1巻』(同朋舎出版)
ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史』(中公文庫)
福田千鶴著『淀殿』(ミネルヴァ書房)
桑田忠親著『淀君』 (吉川弘文館)



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