こうして見ると、古典的リベラリズム、進歩的リベラリズム、マルクス主義の3者は、支配する層が「経済エリート」か「専門家テクノクラート」か「前衛党エリート」かという違いに過ぎず、いずれも過激な人間改造と伝統社会の解体を推し進める点において、同根のイデオロギーであったことが露わになる。
「共通善」を中心に据えたポストリベラルの政治哲学
近代の3大イデオロギーが揃って社会を解体し、人間を根無し草(アトム化された個人)へと追い込んできた歴史を鑑みるならば、私たちが今なすべきことは、進歩主義そのものからの脱却である。
これに対する真の代替案こそが、古代ギリシャ・ローマの哲学やキリスト教的伝統に遡る「共通善保守主義(Common-Good Conservatism)」である。
ここでいう「共通善(Common Good)」とは、一部のエリートや特定の個人だけの私的な利益ではなく、社会のすべての構成員が享受できる「普遍的な人間的繁栄の基盤」を指す。
具体的には、安定した家族形成、持続可能な地域社会、生きがいのある労働環境、相互の助け合いの規範、そして世代を超えて受け継がれる文化と信仰の継続性である。
共通善保守主義の最大の特徴は、自由を「制約からの脱却」として捉えるのではなく、「共通の善を実現するための秩序と徳の修練」として捉える点にある。
この政治哲学は、単純な左右の軸には収まらない。経済領域においては、新自由主義的な過激な資本主義や市場原理主義を批判し、国内労働者の雇用と産業、地域社会を保護する「左派的・労働者優先」の政策をとる。
一方で、社会・文化領域においては、家族や伝統、宗教的価値観を堅固に擁護する「右派的・伝統主義」の立場をとる。
エドマンド・バークやベンジャミン・ディズレーリが唱えた「ワン・ネーション保守主義(トーリー・デモクラシー)」の系譜を引くこの思想は、大衆の「常識」に寄り添い、エリート層に対しては支配ではなく「共通善への奉仕」を義務付ける。
果てしない「進歩」と「自己創造」の幻影に追われ、精神的・社会的な破産に直面している現代人にとって、共通善保守主義は、人間らしい安定と絆を取り戻すための唯一の羅針盤となるのである。
[訳:角敦子]


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