そのカーバイト工場から発展したのが日本窒素肥料株式会社である。のちに日窒コンツェルンといわれる、戦前の日本における代表的な新興財閥となった。つまり、水俣病を引き起こしたチッソの歴史をさかのぼっていくと、曽木発電所にたどり着く。
湖底に残る赤レンガの建物は、日本の近代化がもたらした「功績だけ」を伝える遺構ではないのだろう。この発電所で作られた電気は鉱山や周辺集落への電気供給で集落を明るく照らして産業を発展させただけでなく、公害病にもつながっていった。
1965年、鶴田ダムの完成と共に第二発電所はダム湖に沈み、56年の歴史に幕を閉じた。
再発見された「廃墟」
1965年に水没して以降、曽木発電所は年月と共に朽ちていった。周囲はうっそうとした山に覆われ、渇水期に湖から現れても人の目に触れることはまれだった。
ただしごく一部の近隣住民の間では知られていたようだ。
祖父が曽木発電所に勤めていた御書辰志さんは、6~7歳くらいの頃に連れてきてもらったという。荒れたジャングルのようなところに朽ちた洋風建築があり、怖かったという。
「草木が生い茂っているところをかき分けて進むと、水辺の中になんか怖い建物が残ってるといった感じで。あたりにいるカワウの鳴き声も恐ろしく聞こえました」
ジャングルのように荒れ果て、1年の半分以上は水没していた「廃墟」が再注目されるきっかけは、大口市(現・伊佐市)出身の技術者・高城重厚さんの存在がある。
その経緯を、高城さんと共に曽木発電所の保存に関わった伊佐市役所の御書辰志さんと、NPO法人バイオマスワークあったらし会の出木場洋さんが教えてくれた。
遺構が沈んでから25年が過ぎた1990年頃、高城さんはその姿を撮影して、「日本の電気化学工業の発祥の地」としての保存を提唱した。
「水俣の病気の原因をたどっていくと、この発電所に行き着くんだと。こういう大事なものがあると教えてくれました」(出木場さん)
「高城さんは技術者として中東で石油関係の仕事をされていました。当時は採掘で出た不要物を屋外で燃やし、空が真っ黒になっていたそうです。こうした経験から、技術者がしっかりと倫理観を持たなければ社会がダメになってしまうと危機感を抱き、水俣病にも強い関心を寄せられていました」(御書さん)


※ログイン後、コメント入力が可能です。