当時、私が生まれた文京区には、軽印刷の工場がたくさんあった。そこでは名刺、学校で使うドリルなどを印刷していた。そのあちらこちらにあった軽印刷所から絵を描く仕事をもらって、生活していたのだ。もちろん今月仕事があったからといって、来月もあるわけではない。毎月、綱渡りのような生活だった。
末っ子の彼を溺愛していた祖母は、たまたま日本舞踊の会で、NHKラジオに行き、声楽を生業(なりわい)にしていて、ラジオで童謡を歌う妹の仕事に、付き添いでいっていた姉、つまり私の母親をそこで見初めて、結婚させれば少しは落ち着くだろうと、ほとんど無理やり父親とくっつけてしまったのだった。
私は誕生から3カ月半以上「戸籍」がなかった
もともと母親は、芸術という言葉にとても弱く、売れない絵描きとか、売れない俳優が青果店で働いているといった状況に惹かれるタイプだったので、結婚話についてはまんざらでもなかったと思う。しかし会ったときの印象があまりよくなかったので、この人、大丈夫かなとは感じたのだそうだ。そして結婚生活を我慢した結果、20年後に離婚となるわけだが、
「私の初対面のときの印象は間違っていなかった」
といばっていた。それでも子どもを2人作っているのだから、男女はわからないものである。
しかし私が生まれたときに、父親が、
「俺の子ではない」
といいはじめたものだから大もめにもめた。彼は親になりたくなかったのである。こんな話を、小学校に入学する前の当事者の私に教えた母親も、ちょっとどうかと思うけれど、彼女にしたら自分に対する侮辱でもあるので、このとききっちりと、
(この人とはやっていけない。子どもが20歳になったら別れよう)
と決めたのだそうだ。
20歳のときにアメリカに行くことになって、私はパスポートを申請する際に、はじめて自分の戸籍謄本を見た。ふつう出生届というものは、生まれた日を含めて、14日以内に届けるものだが、私の場合は12月5日生まれなのに、届け出が出されたのは翌年の3月30日だった。弟はと見てみると、ちゃんと14日以内に提出されていた。つまり私は3カ月半以上、戸籍がなくこの世にいなかったことにされたのである。


※ログイン後、コメント入力が可能です。