志らくの師匠である立川談志は、落語の未来について誰よりも強く危機感を持っていた。1965年に出版された『現代落語論』でも、落語が時代遅れの伝統芸能になってしまうことを案じていた。落語立川流を立ち上げた談志は、専業落語家が所属する「Aコース」とは別に、彼が認めた著名人が所属する「Bコース」を設けた。
そこにはビートたけし、高田文夫、山本晋也らが加わり、そのことが当時マスコミでも大きく取り上げられ、話題になった。志らくがヒカルに「立川さぎ志」という高座名を与えて落語をやらせるのも、師匠の方針を受け継いでいると言える。
ここで重要なのは、志らくがヒカルの人気だけを評価しているわけではないということだ。志らくは、ヒカルのしゃべりの力、言葉の力、人を惹きつける力に強い関心を示している。ヒカルは、テレビタレントのような形で万人に広く支持されて生きてきた人物ではない。むしろ、敵を作り、反発を浴び、批判されながら、それでも大量の視聴者を惹きつけてきた人物である。
ヒカルは「業」を隠さない存在
志らくは彼のやってきたことを単なる炎上商法だと考えているわけではなく、彼に芸人としての可能性を見出している。全員に好かれる人間ではなく、好き嫌いが激しく分かれる人間。味方も敵も作る人間。場を荒らし、空気を変え、世間をざわつかせる人間。志らくがヒカルに見ているのは、そういう意味での「人間らしさ」である。
志らくの師匠である立川談志は「落語は人間の業の肯定である」と語っていた。落語の登場人物は立派な人間ばかりではない。ずるい人間、見栄を張る人間、欲に負ける人間、失敗を繰り返す人間など、どうしようもないがどこか憎めない人間が物語の中心にいる。そこに人間の滑稽さがある。
志らくがヒカルに一目置いているのは、ヒカルこそがまさにそのような「業」を隠さない存在だからではないか。金、成功、承認欲求、虚栄、攻撃性、負けん気。ヒカルはそれらを隠すのではなく、むしろ前面に出してきた。その生々しさは落語的な人間観にも通じるものがある。
