志らくが今回やろうとしているのは、ヒカルを落語界に迎え入れることではない。むしろ、ヒカルという異物を落語界に投げ込み、その反応を含めて1つの騒動にすることだ。志らくは、ヒカルに反発する若手落語家に対しても「悔しかったら世間に向かって落語を語り、話題になり、己を成長させてみろ」と挑発的な言葉を投げかけている。
これは一見乱暴に見えるが、志らくらしい考え方でもある。落語の伝統を守りたいなら、外部からの侵入を拒むべきではない。外から来た者を芸の力で圧倒すればよい。ヒカルの落語が未熟だというのなら、本職の落語家が高座でその差を見せつければいい。もしヒカルが客を連れてくるなら、その客に本物の落語を見せればいい。志らくは、落語界を活性化するためにそういう状況を意図的に作ろうとしている。
もちろん、この考え方には危うさもある。落語界の修業制度や師弟関係を軽く見ているように受け取られる危険性はあるし、長年地道に芸を磨いてきた落語家たちにとっては、乱暴な言い方にも聞こえるかもしれない。ヒカルのファンが落語に触れることは入口になるかもしれないが、同時に落語がヒカルの話題作りの素材として消費されてしまう可能性もある。
話題性だけでは続かない
ヒカルが本当に落語をものにするかどうかはまだわからない。YouTuberとして培ってきた話術が、落語の世界でどこまで通用するのかは未知数である。編集もテロップもカメラもない高座で、1人で複数の人物を演じ分け、間と声と身体だけで客の想像力をかき立てることは容易ではない。話題性だけで最初の公演は成功したとしても、二度目、三度目の機会があるのかどうか、そこで客席を埋められるか、観客を満足させられるかというのは別問題である。そのときに彼の本気が試されることになる。
今回の騒動で問われているのは、落語界が外部からの異物をどのように受け止め、どのように自らの力に変えていけるのかということだ。ヒカルは高座で何を見せるのか。そして、それに対して本職の落語家たちがどのような芸で応えていくのか。志らくが仕掛けた本当の勝負はそこから始まるのだ。
