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政治・経済・投資 #小幡績教授のアフターエコノミクス

2杯目のビールは1杯目より幸せ度が低いと説明する経済学の教科書の罪深さ…すぐに飽きる消費者、次々に登場する新商品

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「とりあえず生」の世界、クラフトビールの世界(写真:WinzenT/GettyImages)
  • 小幡 績 慶応義塾大学大学院教授
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INDEX

さあ、ようやく、22世紀の新しい経済学の教科書の執筆に戻ろう。

第1部は、消費者、効用を感じる経済主体の側の話だった。

第2部は、生産側である。需要と供給なら供給側である。

結論を先取りすれば、第1部では、市場は悪、価格は悪の手段、ということだったが、第2部の核は、競争は悪、ということだ。

効用関数という元凶

第1部で述べたのは、20世紀の教科書経済学での根本的な誤りとは、価格が正しいことを大前提においていることであり、その結果、経済における中核メカニズムである市場は、資源の効率配分と効用(幸せ度)の最大化を実現する魔法の見えざる手であり、神とも捉えうる理想の場であると捉えられているということだ。

その背景には、消費者(経済主体)が自己の効用関数を常に完全に知っているという前提を置いていることがある。

私の22世紀の経済学においては、この効用関数というものが登場したこと自体が間違いではないか、という認識がある。効用関数は便利だが、現実とはまったく違う世界を経済学が提示することになった元凶であると考える。これは、かなりラディカルな見方で、現代の経済学者は誰も賛成しないだろう。

しかし、20世紀末的な経済学においても、情報の非対称性があり、供給者と需要者による効率的な取引ができなくなっている、という状況だけで、新古典派の経済学は窮地に陥る。ゲーム論的な戦略的行動が必要となっていると捉えるだけでは、経済全体を描写することはできない。

こう述べると、私だけの独りよがりな異端というよりは、無視してよい戯言のようであるが、実は、新古典派経済学の登場以前にあった古典派経済学は、私の22世紀の経済学と共有するところが多い。

プレイバック古典派経済学

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