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「サ店も雀荘もパチ屋も飲み屋もない」と嘆きの声…開学からわずか21年で消滅「青学・厚木キャンパス」はなぜ作られたのか

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左側の建物が厚木キャンパス跡地に建ったNATC。1981年には青学とおぼしき大学に通う女子大生モデルが主人公の『なんとなく、クリスタル』(田中康夫著)が映画化もされて大ブームになった。都会的な消費生活をイメージしてきた学生は、厚木キャンパスとのギャップに何を思っただろうか(写真:筆者撮影)
  • 松本 史 フリーランス編集・ライター
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郊外に“追い出された”キャンパス

そもそもなぜ、青学は厚木という郊外にキャンパスを作ったのか?

1960年から1989年に死去するまでの約30年間、青山学院の中で「院長・学長、あるいは院長・理事長として大きな影響力」(『青山学院大学五十年史』)を持った大木金次郎氏は、「(前略)キャンパスが郊外に出ていくのは、出ていくのではなく、追い出されていくのだと言っても良いと思う」(『東京人』1988年3月「青山学院厚木キャンパス事始」)と述べている。

その背景にあるのは1959年に制定された「工場等制限法」だ。工場等とあるが、大学も規制の対象になっていて、首都圏の都心部では床面積1500m²以上の工場や大学の新設・増設が禁止された。

高度経済成長期には都市部の人口が急速に増え、交通混雑や住宅不足などの問題が起こっていた。つまり、国は工場や学校を「人口集中を招く施設」とみなし、新設を制限したのだ。大木氏は「工場と学校を一緒に規制の対象にするほど日本の政治家は未だ程度が低いのである」(『東京人』1988年3月「青山学院厚木キャンパス事始」)と怒りをあらわにしている。

大木氏が「追い出されていく」と表現するのも気持ちはわかる。というのも、1960年代に拡大路線をとった青学は、1970年代に入ってから、学生一人当たり10m²という大学設置基準に、校地面積が満たない状況が続いていて、ことあるごとに文部省から指導を受けているのだ。

1973年1月の一部学部の定員変更の申請時は「校地が不足しているので拡張すること」という条件がつけられ、同11月の大学院の専攻設置申請の際にも「校地が不足しているので購入計画を具体化するよう指示があった」という。しかし、工場等制限法で都市部にはキャンパスが作れない。郊外に校地を求めるしかなかったのだ。

続く後編では、大木氏の鶴の一声で始まった青学・厚木キャンパスの校地探しの様子や、にもかかわらずわずか10年で青学の課題となった経緯などをお伝えしている。

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