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「サ店も雀荘もパチ屋も飲み屋もない」と嘆きの声…開学からわずか21年で消滅「青学・厚木キャンパス」はなぜ作られたのか

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左側の建物が厚木キャンパス跡地に建ったNATC。1981年には青学とおぼしき大学に通う女子大生モデルが主人公の『なんとなく、クリスタル』(田中康夫著)が映画化もされて大ブームになった。都会的な消費生活をイメージしてきた学生は、厚木キャンパスとのギャップに何を思っただろうか(写真:筆者撮影)
  • 松本 史 フリーランス編集・ライター
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実現しなかった厚木モノレール構想

しかし、そもそも開学前から交通アクセスに問題があることはわかっていたのでは? 森の里は本厚木駅から直線距離で5キロも離れた場所にあり、駅から徒歩で通える範囲ではない。

実は当時、厚木市にはモノレール構想があったのだ。森の里への青学誘致にあたって、モノレール構想がセールスポイントの一つであったことは容易に想像できる。実際、青学が森の里の土地を購入した翌年の1981年から、厚木市は日本モノレール協会に調査を委託している。青学としては、数年のうちにモノレールができると期待していたのだろう。

しかし、モノレールは実現しなかった。

1988年の「'88都市モノレールセミナー」の講演において、当時の厚木市都市政策室長が、1984年にモノレールは乗車需要、採算面において困難という結論が出たと話している。その代わりとして、予算が安く工期も短いガイドウェイバスを検討しているが、導入する街路の狭さがネックになっていると歯切れが悪い(『モノレール』NO.66 1989年3月「衛星都市の交通問題ー厚木市の交通問題の現状と将来構想ー」)。

1991年に当時の青学の副学長だった日向寺純雄氏は、「開学当初モノレール構想がありましたが、現時点では県レベルでも市レベルでも、私の知るかぎり、具体的な進展はないようです」と記している(『青山学報』154号 1991年7月「厚木キャンパス十年ーさらなる発展のためにー」)。モノレール計画の実現のために、強力な推進運動が必要と日向寺氏は続けているが、正直、その段階では諦めムードが強かったのではないか。

1970年代後半から1980年代前半にかけて、新しい交通手段としてさまざまな地域でモノレールが検討されていた。しかし、その多くは予算などの問題で頓挫した。厚木市のモノレールもその一つだったのだ。

森の里唯一のスーパー。開学2年目からは、当初、禁止されていた車通学も条件付きで許可されたが、許可のない学生が近隣施設の駐車場を使うなど問題が発生し、条件は年々緩和されていった(写真:筆者撮影)

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【1959年に制定された「工場等制限法」】

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