1982年11月18日の『読売新聞』によると「(前略)厚木周辺の下宿、間借り組が十三%で、あとは東京、横浜方面からの通学組」で、片道2時間以上かけて通学してくる学生も多かった。1限の授業に間に合わせるために友達の下宿先に前泊していたといった声もある。
何年にもわたって粘り強く交渉を重ねたバスの増発
開学前から、青学は何度も神奈中に足を運び、バスの増発を再三にわたってお願いしている。ただ、1年目は森の里には青学しかなく、宅地販売も数年先に予定されていたせいか、大幅な増便には対応してもらえなかったようだ。
しかし、何年にもわたって粘り強く交渉を重ね、「バス輸送については、正門内にバス発着所を新設し、二年目以降にバスの増発を図るなどの対策を早急に行った。さらに一九八七年一〇月から愛甲石田駅北口広場開設に伴い、同駅からのバスが運行できるようにするなど、さまざまな対策を順次打ち出していった」(『青山学院大学五十年史』)。
厚木キャンパスに通った青学生にとって「愛甲ダッシュ」は懐かしい言葉だ。愛甲石田駅からのバスは所要時間が15分ほどで渋滞も少なく、本厚木駅からのバスと比べて早く着くと、利用する学生が多かった。しかし、本数が少なかったため、愛甲石田駅で電車を降りた学生が、バス停までダッシュして我先に乗車しようとする状況が生まれた。これが「愛甲ダッシュ」だ。
駅からタクシーに相乗りして通学する学生も相当数いたという。厚木担当副学長を務めていた貫達人氏によると「これはバス輸送に関心をもっている大学としては大いに助かりました。(中略)五千数百人分はバスを用意しなければならぬと考えていたのですが、実際には四千人を上下する程度になったことは、タクシー利用者には気の毒ながら、バスの配車には余裕ができたことになります」(『青山学報』203号 2003年3月「厚木開学の頃」)とある。
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【期待されていたモノレール構想】
