政子さんの人生は、まるでおとぎ話のように聞こえる。だが時折、その奥に小さな影がのぞく。
60代になった頃、政子さんは一度だけ、夫に離婚を切り出したことがある。
「嫌いになったわけじゃないの。ただ、お互い自由に生きたほうがいいんじゃないかと思ったの」
だが、夫は首を縦に振らなかった。
「いろいろあったわ」
政子さんはそう言って笑ったが、その先は語らなかった。
結婚当初は、「あんな結婚、2日も持たない」と言う人さえいた。しかしふたりは、50年連れ添った。政子さんは最後まで、夫を悪く言うことはなかった。
何も言えなかった後悔
20年10月、コロナ禍のまっただ中、夫は入院先で感染し、そのまま亡くなった。
その日は、長女の誕生日だった。長女と孫たちが泊まりに来ていて、夜11時半ごろ、そろそろ寝ようかと思ったときに電話が鳴った。相手は、夫の担当医だった。
「……残念です。亡くなりました」
政子さんはとっさに、電話を切ってしまった。隣にいた長女が、代わりにかけ直したという。
コロナ禍で病院への出入りが制限され、最期を看取ることはできなかった。それでも政子さんの胸には、入院中に夫が遺した言葉が今も残っている。
「もうすぐ逝くと思う。だけど心配しないで。寂しかったら、いつものベンチにおいで、僕も行くから。人生で最高だったのは、お前に出会えたことだよ」
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【何も言えなかった】
