学び直しへの評価も、同様の傾向が当てはまる。
「自己演出」と疑われやすい背景には、努力の中身が外部から遮断されている実態がある。大学院での学びは、文献講読や思索、執筆の積み重ねであり、過程が他人の目に触れる機会は乏しい。見える部分は入学と修了の節目に限定されるため、経歴の書き換えという結果のみが独り歩きし、肝心の実態は判断されにくい。
歴史を振り返れば、見えない学びを鮮やかな成果へ転じた先人がいる。日本仏教において学問中心の仏教を実践体系へと塗り替えた真言宗の開祖、空海(弘法大師)だ。
遣唐使として唐へ渡った空海は、長安の青龍寺で密教の奥義を修めた。短期間で伝法阿闍梨の位を授かり帰国したが、真言密教の確立にとどまらず、思想、建築、書、医療、土木と、得た知恵をことごとく現実社会の変革へとつなげた。
空海が提唱した即身成仏は、抽象的な観念の世界ではなく、生身の人間がこの世において、仏としての境地を具体的な行動で示すあり方を指す。何も持たずに学びへ向かい、満ち足りた知恵を携えて社会に尽くす「虚往実帰」の言葉どおり、得た教えを現実の成果へ結実させた。
知識が意味を成すために必要な要件
「弘法も筆の誤り」ということわざはあるが、誤りのない名言を遺した経営学の大家がいる。2024年12月に逝去した加護野忠男・神戸大学名誉教授だ。
同大本館中庭の記念碑には、「経営学はよいことを上手に成し遂げる方法を探求する学問である」と刻まれている。14年の著書『経営はだれのものか』(日本経済新聞出版)の一節であり、知を実践に結びつける信念が凝縮されているようだ。
空海が説いた「理想をこの世で形にする教え」と、加護野氏が提唱した「実践の理論化」は、知識は現実の課題にぶつかり、成果を成し遂げてこそ意味を成すという一点で合致する。
こうした視点に立てば、偏差値を尺度とした既存の人物評価がいかに不完全であるかが明白になる。大学院の名称より、つかみ取った叡智をいかにして使いこなし、社会に役立つ結果を出すかが重要となる。
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【学歴という看板は根強く影響力を持ち続ける】
