もう1つ見逃せないのが、ランドセルが持つ文化的な意味です。ランドセルは単なる鞄ではありません。「1年生らしさ」と強く結びついた存在です。
実際、「ピカピカの1年生」というイメージにはランドセルがセットで登場しますし、「背中で笑ってるランドセル」と表現されるように、文化の中に深く組み込まれています。
体の小さな子どもが、大きなランドセルを背負っている姿を「かわいい」と感じる。この感覚は確かに存在しますし、それがランドセルを残している一因でもあります。
ランドセルは後ろに張り出す構造のため、子どもにとっては身体の拡張のような状態になります。机や棚にぶつかる、周囲の子どもと接触する、物を引っかけて落とす。こうしたことは現場では日常的に起きています。
つまりランドセルは、「文化としては納得できる」一方で、「道具としては必ずしも合理的ではない」という二重の性質を持っているのです。
ランドセルが象徴する「一律」という思想と合理性とのズレ
もう1つ見落としてはいけないのは、ランドセルが持つ「一律性」です。本来、道具は体に合わせて選ぶものです。靴も、服も、道具もそうです。しかしランドセルは違います。体が小さい子も、大きく成長した子も、同じ形、同じサイズを使い続ける。
いわば、「全員Mサイズ」です。1年生には大きすぎる。6年生には小さすぎる。それでも変えない。ここにあるのは合理性ではなく、「一律であること」の優先です。
ランドセルは軽くありません。小学生の90.4%が「重い」と感じています(フットマーク調査)。平均重量は約3.94kg、6年生では5.4kgに達します。これは明確な負担です。
だからこそ文部科学省も2018年に「置き勉」を容認しました。つまり国も、「毎日持ち運ぶのは無理がある」と認めています。それでも、ランドセルは変わらない。ここに「合理」と「現実」のズレがあります。
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【ランドセルを選ばされていないか?】
