それでなければならない合理的な理由は、ほとんどありません。それでも続いている。なぜか。「ずっとそうしてきたから」です。
この構造は、ランドセルに限りません。宿題も、行事も、並び方や号令も、さまざまな“学校の当たり前”も同じです。必要だから残っているのではなく、残っているから必要だと感じている。ランドセルは、その象徴に過ぎません。
「少数であること」が問題になる構造
現場でよくあるのが、ランドセル以外の鞄に対する何気ない一言が、強い反応を招くケースです。問題は発言ではありません。「少数であること」そのものです。目立つことがリスクになる。違うことが説明責任になる。この構造が、「同じ」を選ばせます。
保護者の立場で考えれば、これは合理的です。目立たないほうがいい、トラブルは避けたい、子どもに負担をかけたくない。そう考えたとき、「みんなと同じにする」という選択は、極めて合理的になります。
つまりランドセルは、選ばれているのではなく、「波風を立てないために選ばされている」面もあるのです。
この構造は、学校の外にもあります。ランドセル購入費を祖父母が負担する割合は52.4%とされています。さらに平均価格は5万9138円(ランドセル工業会調査)。

一度購入すれば6年間使う前提の買い物です。その時点で、「途中で変える」という発想はほぼ消えます。
さらに、そこに祖父母の思いが乗る。「ランドセルを背負った孫を見たい」。この感情は、善意であり、同時に強い拘束力でもあります。若い親が「リュックでもいいのでは」と思っていても、言い出せない。そこには、「本当はこうしたい」という思いを飲み込む葛藤も生まれます。ここでも、「同じであること」が選ばれます。
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【ランドセルが象徴する「一律」という思想と合理性とのズレ】
