旧生駒トンネルは1914年(大正3年)に開通した、当時としては国内で2番目に長いトンネルだ。
大阪府東大阪市と、奈良県生駒市の境にある生駒山を東西に貫いている。このルート選定の裏には、創業時の近鉄による合理的な意思決定があったという。
「山を迂回して南側を通るか、山を登るなどの案もあったそうです。ですが、当時の近鉄(元、大阪電気軌道)の代表は、一番お金と危険を伴う、山を貫く方法を選びました。『鉄道というのは、最短距離でもっとも効率良く人々を運ぶものだ』という思いからの判断だったそうです」(音川さん)
しかし、ほぼ手掘りでの工事は困難を極めた。掘削中の落盤事故で19人が死亡したほか、出水や地質の問題に悩まされる。開通後も、トンネル内で車両火災やブレーキ故障による暴走追突事故が重なり、多くの犠牲者を出している。
また、この巨大トンネルプロジェクトは、金銭的にも厳しい状況だったようだ。近畿日本鉄道の道のりを記した『東への鉄路』(木本 正次著)には、トンネル建設にかかった莫大な費用により、近鉄は開通後、切符の印刷費にも困るほどの経営危機に陥ったと記されている。経営陣は金策に奔走したそうだ。
役目を終えても「解体」されなかった
その後、50年にわたって関西経済の発展を支えた旧生駒トンネルだが、1964年に封鎖されることになった。理由は、物理的なものだ。
戦後の輸送力増強に伴い、車両が大きくなったのだ。旧トンネルの道幅では大型化した新型車両を通すことができず、隣接して掘削された新生駒トンネルに主役の座を譲った。
役目を終えたインフラは、通常であれば多額のコストをかけて解体・埋め戻されるか、朽ちるに任される。しかし、旧生駒トンネルは「緊急避難経路として再利用する」という実用的な判断がなされた。万が一、新トンネル内で事故や火災が起きた際、乗客を安全に逃がすためのルートとなったのだ。
さらに、有事に消防車や救急車などの緊急車両が直接進入して通行できるよう、トンネルの中にスペースも確保している。
つまり、多額のコストをかけて解体するのではなく、「現役路線の安全を担保するための必須インフラ」として用途を変え、近鉄は管理・維持し続ける道を選んだのである。
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【大正時代のレンガが、今も崩れない理由】
