「最後に1回売れなきゃいけない」腎移植手術失敗→左膝下切断したハチミツ二郎《車椅子で散歩》の冠番組で脳裏に焼き付いた場面
立川談志からは「お前は勲章を欲しがるな」、ビートたけしからは「必ず寄席がひっくり返す時が来る」という金言をもらい、長らく二郎は吉本興業のショー・ストッパー(劇場のトリを務める芸人)としての道を走り続けた。
しかし、体調を崩してからはそれも難しくなる。透析治療を受け、離婚後はシングルファザーとなり、車椅子生活が始まった。ただ、まだ二郎は何かを掴もうとしている。その姿勢は、大好きなプロレスから得た哲学なのかもしれない。
レスラーとしての姿
上京して間もなく、二郎は東京で初めて観たプロレス興行「FMW後楽園ホール大会」に武者震いする。大仁田厚がプロレス団体「FMW」を旗揚げし、見たことがない場外乱闘中心の試合を展開して観客を熱狂させていたのだ。
その後、芸人の活動と並行して01年の『西口プロレス』(お笑い芸人によるプロレス団体)創成期から参戦し、09年にメキシコでプロレスライセンスを取得して話題となるなど、二郎はレスラーとしても存在感を示す。
17年には、当時引退宣言(翌18年に復帰)をしていた大仁田と電流爆破デスマッチで対戦。芸人として生死をかけたリングに立ち、大仁田から有刺鉄線電流爆破バットを浴びてマットに沈んだ。試合後、大仁田は「芸人がプロレスが好きで何が悪い!」と二郎を批判するプロレスファンに呼び掛け、その行動力と心意気を称えている。
人生は一筋縄ではいかないものだ。理不尽な目に遭い、信頼していた相手に裏切られ、絶対にトチれない場所で赤っ恥もかく。ただ、わずかな可能性を信じて戦う姿は見る者を夢中にさせる。
芸人とレスラー。ふたつの夢を独自のやり方で掴んだ二郎は、そんな生き方を体現しているように思えてならない。前述の『マイ・ウェイ』の中に、こんな言葉がある。
「オレは子供の頃から、プロレスを観ている。だからどんなに苦しくてもカウント2で返せば、なんとかなるということを知っている。カウント2.9でもカウント2.99でも跳ね返せば、試合は続く」
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