「最後に1回売れなきゃいけない」腎移植手術失敗→左膝下切断したハチミツ二郎《車椅子で散歩》の冠番組で脳裏に焼き付いた場面
その後、一度は解消したコンビを復活させ、フリー芸人として活動を開始する。二郎が23歳の頃、浅草キッドのライブイベント「浅草お兄さん会」を引き継ぐ形でお笑い事務所「トンパチ・プロ」を設立。このあたりに二郎のバイタリティーと人望の厚さが垣間見える。
一時はライブシーンを沸かすも、長くは続かない。相方の曽根が姿を消し、01年に事務所も解散した。同年、トンパチ・プロのライブに参加していた松田大輔と第2期東京ダイナマイトを結成。血気盛んな二郎は、ここでも最初から型破りな行動に出る。
デビュー戦は、198人キャパの劇場「新宿シアターモリエール」での単独ライブ。ここに彼らは、290人もの観客を入れた。
翌02年8月には、ロックの聖地「日比谷野外音楽堂」で単独の第2弾を開催。今度は3000人キャパに500人の動員で150万円の借金を背負った。
一方で、オフィス北野の所属となり、メジャーな世界で頭角を現わす。04年、09年には『M-1』、13年には『THE MANZAI』の決勝に進出し、バラエティーでも活躍して知名度を上げた。
その過程で08年にオフィス北野を離れ、オスカープロモーションと契約するも翌09年3月に退社。フリー期間を経て、同年8月から現在の吉本興業所属となった。
離婚後はシングルファザーに
10年前後までのキャリアを駆け足で振り返ればこうなるが、実際の歩みはそんな平坦なものではない。二郎の著書『マイ・ウェイ』(双葉社)には、これまでの壮絶な体験が赤裸々に記されている。
事務所移籍だけでも、社員や先輩芸人の嫌がらせとの格闘、かつての芸能界らしい仁義と自身の思いとの乖離、歯が浮くような条件のスカウトと契約後のギャップなど、読んでいるこちらまでメンタルをすり減らすようなエピソードが並ぶ。
腎移植手術の話をめぐる、当時の妻、娘、姉兄や母親との人間模様も生々しく身につまされるものがある。当事者であればなおのことだろう。





















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