顔を出し、声を枯らしてあらがった福島原発事故の自主避難者たち。初心を貫いた誇りと、今も続く心の葛藤。それぞれの15年と今
克己さんと妻育美さん(50)の姿は今も避難先の静岡県富士宮市にあった。夫婦が営むフォカッチャ店で二人の話に耳を傾けた。
克己さんは元々、首都圏で介護事業所を経営する会社の社員で、福島への進出に伴って移り住み、地元出身で従業員の育美さんと結婚した。「このまま福島に骨を埋めることになるのだろう」と考えていたところで、あの原発事故が起きた。
克己さんは11年8月、育美さんと当時5歳の長男とともに福島県郡山市から静岡県富士宮市に自主避難した。首都圏に転勤する道もあったが、「それは潔くない」と考え、退職して家族で自主避難する道を選んだ。
郡山で生まれ育った育美さんは当初、長男を自らの両親から引き離す自主避難をためらっていたが、2つの体験をきっかけに避難を決めた。
1つ目の体験とは、夫婦で同年5月下旬に市民団体の集会に参加した際のことだった。のらりくらりと無責任な答えを繰り返す福島県の担当者を見て、「この人たちは味方じゃない」と失望した。
2つ目の体験は、同じ頃、自主避難を迷っていた〝ママ友〟から届いた一通のメールだった。
「気が狂いそうなので、その話(自主避難)はもうしないでください。何事もなかったように(福島に)残ることを決めました」
自主避難後の長谷川さん一家の生活は?
無責任になって、考えることを止めなければ福島で生きていけないのか? 2つの出来事から割り切れない不条理を感じ、育美さんの心は決まった。
夫妻は12年に駅前で2階建ての一軒家を借りて高齢者のデイサービス施設、15年には2階に障害児のデイサービス施設をオープンした。コロナ禍で利用者が減った1階の高齢者施設は2年前に閉鎖したが、代わって米粉を使ったフォカッチャ店を毎週土曜日に開いている。育美さんのアイデアだ。まだ思うような売り上げにはなっていないが、2人の表情は明るい。私が「思い切りましたね」と声を掛けると、克己さんは「本当は臆病なんですけどね。原発事故の避難が役に立ったのかもしれません」と笑顔を見せた。
家族は「みなし仮設住宅」を出た後、近所に家を新築した。すでに住民票も富士宮に移している。育美さんの父は23年7月に他界し、戻る場所はなくなった。外形的には「避難者」ではなく「移住者」だが、郡山市からは今も毎月、市の広報が届く。同封されているアンケート用紙の「移住する」にマルを付けて返送すれば、翌月から広報は届かないが、あえて受け取り続けている。克己さんが理由をこう説明した。
「俺たちはただの移住者じゃないぞ、今も原発避難者なんだって言いたいんです」
克己さんは最近、知人からの指摘で「理不尽」が口癖になっていることに気づいた。
「私たちが置かれている状況を端的に表現している言葉です。私は自主避難を後悔したことはありません。合理的な選択をしたと思っています。国は私たちを頭のおかしい人、常識のない人として扱ってきた。そんな信頼できない行政に自分たちの身を預けられません。国が『自主避難は正しい選択だった』と認めるまで、私たちの避難生活は終わりません」





















無料会員登録はこちら
ログインはこちら