医療の巨大データ基盤「バイオバンク」が創る未来 15万人の検体を守り抜く「品質管理」の最前線

未病・難病を解くカギになる「バイオバンク」の重要性
超高齢社会を迎えた日本において、医療費の増大は喫緊の課題だ。日本人の平均寿命は長いが、健康寿命との間には約10年もの乖離がある。
このギャップを埋め、膨れ上がるコストを抑えるには、病気になる前の「未病」段階で予兆を捉え、発症自体を防ぐ社会への転換が不可欠である。一方で、原因不明の「難病」に苦しむ人々のために、新たな治療法を見つけることも急務だ。
「未病」と「難病」という一見異なる2つの難題を解決するカギは、実は共通している。それは「健康な人の生体データ」を大量かつ長期的に追跡・蓄積する仕組みだ。健康な状態を把握することで、病気への微細な変化に気づくことができるからだ。また、難病患者だけが持つ特異な遺伝子変異を、比較によってあぶり出すことも可能になる。
しかし、どうやって「未病」を見つけるのか。健康な人が、いつ、なぜ病気を発症するのか。そのメカニズムを解明するために欠かせないのが、健康な人の生体データを大量かつ長期的に追跡・蓄積する仕組みである。
その実現に向けた拠点の1つが、東北大学東北メディカル・メガバンク機構(以下、ToMMo)が構築したバイオバンクだ。ToMMoの長神風二氏は、こう説明する。
「バイオバンクとは、血液や尿、DNAなどの『生体試料』および、生活習慣や健康状態などの『生体試料にひも付く情報』を、将来の研究利用のために体系的に保存・管理する仕組みのことです。ToMMoでは、独立した委員会による審査をもとに、研究者に対して生体試料を提供したり、試料を自ら大規模に統一的に解析してデータセットを作って閲覧・利用に供したりしています」
国内に約60カ所あるバイオバンクの中で、ToMMoは生体試料の収集やその解析規模の大きさから、日本最大級のバイオバンクの1つに数えられる。ToMMoが岩手医科大学の協力を得て構築したのは約15万人を対象とした、長期にわたる「追跡型健康調査(コホート調査)」の基盤だ。患者を診るだけではわからない、「なぜ病気になったのか」という根本的な問いに答えるための仕組みである。
「ToMMoは宮城・岩手の住民約15万人を長期間追跡し、生体試料やDNA情報を統合管理しています。さらに、日本最大規模となる約10万人分の全ゲノム解析を完了しました。
この膨大な一般住民のデータは、さまざまなことに役立ちます。例えば、希少な難病患者の遺伝子変異が健常者の多くにも存在すれば、それは原因ではないとして除外できます。
これにより、膨大な候補から真の原因となりうる候補を数十個レベルまで劇的に絞り込めるため、難病の正体を突き止め、早期の診断や治療法の確立につなげることができます」(長神氏)
広報・企画部門 副部門長/総務・企画事業部 副部長/広報戦略室長
教授(広報・倫理法令/企画担当) 長神風二氏
具体的な成果も出ている。指定難病「潰瘍性大腸炎」の研究では、バイオバンクに保存されている血液のうち、調査時は健康で後に発症した人の血液を解析した。すると、発症しなかった人と比較したときに、症状が出る前から特定の抗体値(病原体に対抗する抗体が、血液中にどの程度存在しているかを示す指標)が上昇していた事実を突き止めた。
さらに、COVID-19のパンデミックにも威力を発揮した。当時、いくつかの大学病院でワクチン接種後の抗体値の研究が行われたが、対象が職員のために、65歳以下の比較的健康意識が高い人々だった。
そこで、ToMMoでは病院職員対象では捉えきれない高齢者や喫煙者を含む一般住民のデータを収集・活用し、ワクチン抗体値の推移を解析。年齢や生活習慣が免疫に及ぼす影響など、実社会の現状に即した貴重な知見を迅速に提示することに成功したという。
数十年先も守り抜くために、成否を分ける「品質管理」
バイオバンクを維持し、生体試料を数十年先まで価値あるデータとして保管し続けることは、並大抵のことではない。そこに立ちはだかる大きな壁が「品質管理」である。
日本生物資源産業利用協議会(以下、CIBER)でバイオバンクの標準化に取り組む池田純子氏は、この難題について、バイオバンクにおける品質の定義から次のように説明する。
「バイオバンクで問われる品質を一言で言えば『目的に合っているかどうか』です。研究の目的によって、求められるスペックは異なります。だからこそ、将来の多様な研究ニーズを見越して、あらかじめバイオバンクに収集・保管する検体の基準となる用途を設定しておき、その用途から逆算して手順を設計し、徹底することが何より重要です」
代表理事 池田純子氏
その手順の中で、特に神経をとがらせるのが「鮮度」の管理だ。池田氏は、生体試料のデリケートさをこう説明する。
「血液や病理検体は、体から出た瞬間から刻々と状態が変化します。直ちに適切な処置を施さなければ、その時点の体の状態を正確に捉えることはできません。
研究者が将来、検体データを利用する際、もし処理方法にばらつきがあれば、それは科学的な証拠として成立しなくなってしまいます。いつ、誰が扱っても同じ結果が得られるよう、徹底したプロセス管理が求められるのです」
長年にわたり、すべての検体を一切のブレなく同じ手順で扱ってきたと保証できるかどうか。それがバイオバンクの価値を決定づけると言っても過言ではないという。その精確な手順を現場で動かすのは、機械ではなく「人」だ。
CIBERでは、バイオバンクや検体管理室などバイオリソースに従事する専門人材を育成するため、「バイオリポジトリ技術管理士(BiTA)」という認定資格制度を立ち上げた。そこには、研究に供するための精確な手順の意義を理解し、プロセスを順守する高い専門性が不可欠だからである。
ToMMoは、こうした厳格な品質管理を世界レベルで実現している。2024年3月にバイオバンクの国際規格「ISO 20387(JIS Q 20387、バイオバンキングの一般要求事項)」の認定を日本で初めて取得した。これは、ToMMoの管理体制が世界標準に達していることを証明する。
このToMMoの高度な品質管理をハードウェアの側面から支えているのが、サーモフィッシャーサイエンティフィック(以下、サーモフィッシャー)だ。現在、貴重な生体試料の保存には、同社が提供する2次元コード付きのプラスチック製容器「Thermo Scientific™ Matrix™ 2Dチューブ」が採用されている。
2次元コードが付いた1.1ミリリットルの小さな樹脂容器だが、そこにはメーカーとしてのこだわりが詰まっている。同社の中嶋祥人氏は、「私たちが大切にしているのは、生体試料に極力影響を与えないものづくりです」と語る。
ラボプロダクツ フィールドアプリケーションマネージャー
中嶋祥人氏
「一般的な容器は生産効率を上げるために添加剤を加えることがありますが、これでは長期間の保管中に成分が溶け出し、大切な検体に影響を与えるおそれがあります。数十年という歳月をかけて保管されるバイオバンクの試料にとって、容器由来の不純物は決して許されるものではありません。
そのため当社では安全性を最優先し、原材料の段階から余計な添加剤を徹底的に排除した、極めて純度の高い製品を提供しています」(中嶋氏)
容器だけではない。検体の品質維持に欠かせない超低温フリーザー「Thermo Scientific™ TSX™ ユニバーサルシリーズ」も 重要なツールだ。マイナス80℃という超低温を安定的に維持できる性能に加え、環境負荷低減に配慮したノンフロン冷媒を採用し、サステナビリティの観点からもプロジェクトを支えている。
サーモフィッシャーの貢献は「モノ」の提供だけにとどまらない。国際基準や科学的背景を伝えるセミナーなどを通じ、バイオバンク運営者の理解向上や人材育成にも深く関与している。中嶋氏は、サプライヤーの枠を超えた同社の使命について、次のように力を込める。
「私たちはグローバルな事業展開を通じて、バイオバンクの運用におけるベストプラクティスやISO規格などの最新の知見を体系的に蓄積しています。これらの知見を学会やセミナーを通じてお客さまへ還元し、製品の適正使用および運用技術の向上に資する活動を展開しています。
製品供給にとどまらず、成果の創出を技術・情報の両面から支援することで、お客さまがそれを使いこなし、研究成果を上げていただきやすくする。それこそが、われわれの使命です」
「医学研究の民主化」が開く、異業種参入の未来
バイオバンクの整備は、医学研究のあり方そのものを「民主化」しつつあると長神氏は語る。かつて人の検体を使った研究は、病院にコネクションを持つ一部の医学研究者しかできなかった。企業の研究者が「血液を使って研究したい」と思っても、医師に頭を下げて個別に同意書を取り、自分で冷蔵庫を用意して管理するしかなかった。それは極めて非効率で、参入障壁の高い世界だった。
しかし、ToMMoのような公的なバイオバンクができたことで、状況は一変した。審査を経れば、企業や異分野の研究者でも、品質の保証された試料やデータにアクセスできるようになったのだ。この「民主化」は、製薬会社だけでなく、これまで医学研究とは縁遠かった異業種の参入も促している。
「食品、スポーツ、美容、ITなど、人々の生活に関わるあらゆる産業において、バイオバンクを活用してできることの可能性は広がっていくでしょう」と長神氏は展望する。
個人にとっても、バイオバンクは遠い存在ではない。池田氏は、「自分の血液を提供したからといって、すぐに自分の病気が治ったり、予防できたりするわけではありません。しかし、そのデータから生まれた新しい薬や検査法は、巡り巡って将来の自分、ひいては自分の子どもや孫など未来の人々を救うことになるかもしれません」と、その意義を強調する。
健康診断や手術の際に、「余った検体は研究に使っていいですよ」と同意する。そんな人々の小さな善意の積み重ねが実現できれば、いずれ大きなビッグデータとなり、難病の原因究明や、未来のパンデミック対策、そして日々の健康増進へと返ってくるはずだ。
長神氏は最後にバイオバンクの展望を次のように語る。
「バイオバンクを運営する研究機関として、より広く、より深いデータを蓄積し、そこからこれまでにない成果を生み出していきたいと考えています。特にAIの発展によって、これまで想像もできなかった活用方法が生まれ、医療や社会のあり方そのものが変わる可能性もあるでしょう。その未来づくりに貢献していきたい。
そのためにも、多くの市民が関われる仕組みを考えていくことが欠かせません。より公共性の高い社会インフラとして、持続的に運営していく視点を大切にしながら、バイオバンクを発展させていきたいと考えています」



