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ハイデガー哲学から考察「人はなぜ、退屈になるのか」。退屈は決してネガティブなものではない

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人は少し先の将来を見越しつつ、自分の今までのことをちょっと振り返りつつ、現在を生きている。自分が今日、どこかに誰かに会いに行くのは、将来を目がけている。そこに行くためにはどういう服を着て、どういう会話をするか、すでに経験したことにさかのぼって考える。そして実際にスーツを着て、この色のネクタイで行くと現在において決定する。そういう当たり前のやり方で時間的に生きている。

退屈になると、この時間が一挙にどうでもよくなる。日常では自分の意思の下、さまざまなことを振り返りながら、先を見越しながら物事をこなしているはずなのに、もう誰に会おうが、どの服を着ていこうが、すべてどうでもよくなる。しかも、あるとき、強制的にそういう気分は襲ってくる。

ハイデガーによれば、人の本来のあり方はむしろ退屈であるともいえる。なぜなら、人間は例外なく時間において生きているから。そして、その時間のあり方は人間にはどうにもできない。時間の中で自分の行動はコントロールできても、時間自体をコントロールすることはできない。仕事がなくなり、することがなくなったとき、ふと、そのどうにもならないこと、つまり本来の意味での「退屈」が気分として湧き上がってきてしまうのだ。

逃げること=悪いことではない

──普段の生活では感じない気分ですね。

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