「1970年大阪万博」公式ガイドを読み返してよみがえってきた小学5年生当時の強烈な記憶

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各パビリオンでも錚々たる名前が連なる。サントリーグループの「サントリー館」の代表はサントリー社長の佐治敬三、日本専売公社(現JT)の「虹の塔」の設計は建築家の清家清、構成演出は映画監督、松山善三、日本ガス協会の「ガス・パビリオン」の壁画はスペインの画家ジョアン・ミロ、タカラ・グループの「タカラ・ビューティリオン」と東芝IHIグループの「東芝IHI館」の建設設計は、丹下健三門下の建築家、黒川紀章、フジパンの「フジパン・ロボット館」のプロデューサーは漫画家、手塚治虫、バチカン市国の「キリスト教館」のプロデューサーに作家の遠藤周作※、曽野綾子の夫で作家の三浦朱門。

これらの参画者の中で、現存しているのは名誉総裁を務めた皇太子明仁殿下(現上皇)くらいだろうか?

万博を推進した事務方を率いたのが、通産官僚の池口小太郎、のちの作家・堺屋太一だ。今年の関西・大阪万博の開催を橋下徹など大阪維新の政治家に提言したといわれている。まさに「戦後日本」を築いた各界の偉人が、大阪に集結して万博を実現させたといえよう。

豪華だった会期中のイベントの数々

会期中のイベントも、今から思うと信じられないようなスケールだ。

万国博ホールでは開幕の3月15~22日、当時、アメリカで圧倒的な人気があったTVショー「エド・サリバンショー」の公開放送が行われた。7月4~7日は、イギリスで人気絶頂のメリー・ホプキンなどのコンサート。9~12日はフランスの国民的歌手ダリダなどのシャンソン・フェスティバル。

万博会場ではなく、大阪市内のフェスティバルホールでは、29もの万博コンサートが開催された。

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