受験生だった人に伝えたい、合格・不合格という結果との向き合い方。塾講師歴23年の著者が考える、合否に”強く固執する”と嵌ってしまう罠の存在

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僕は受験指導のプロとして23年目の春を迎えましたが、合否という結果にあまりにも強く固執し、この「罠」に嵌まってしまう受験生を数多く見てきました。

目標に向けて努力すること、つまり、合格を目指すことは意義深いものです。そして、合格という「成功体験」がその人の自信を深め、次のステップへの勇気を与えることも間違いなくあるでしょう。

しかし、成功体験に固執する心理の奥には、過去の栄光という幻想的な自己像にしがみつく欲望が隠れています。合格という成功体験がもたらす充足感は、人に自己像が確立したような安心感を与えますが、その安心感にとらわれてしまうと、「次なる挑戦においては失敗するかもしれない」という現実的不安と向き合うことがかえって難しくなります。

そのため、成功体験への強すぎる執着は、人生を「守り」に入らせてしまうことがある。人が「いま」のきらめきを感受すること、さらに、未知の世界へ踏み出すことを妨げ、安心できる過去の居場所にとどまろうとする心理を助長するのです。そもそも、「合格=成功」という価値観自体が極めて短絡的でありそのような歪んだ偏りを固着化したまま過去の実績にすがって生きるなんて、さもしい生き方ではないでしょうか。

一方で、不合格の人が嵌る「罠」

一方、不合格という結果に激しく落胆し、「自分に価値がない」「能力が不足している」と強く結びつけ、自責的な考え方や自己否定感にとらわれるケースもあります。これは一見すると真剣に自分と向き合っているように思えますが、精神分析的な視点では、逆のことが起きている場合が多いのです。つまり、不合格を過剰に自己否定と結びつける心理の根底には、むしろ、「実際の自分の能力や実力を直視することを避けたい」という無意識の欲望があります。

不合格という結果に過度に苦しみ、「自分は価値がない」と嘆くことは、現実の複雑で曖昧な自己の姿を分析する痛みを避けるための想像的な擬制(フィクション)として機能します。これによってその人は、「本当の自分」を正面から捉えるという厳しい作業を免れ、代わりに「価値がない」「能力不足だ」といった明快で単純化された物語に逃避してしまうのです。

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