さらに、「僕は東京都の西側にしか住みたくない人間だったんですが、娘のために3年間京都へ移住しました」と三木さん。どういうことか。
東京は通勤途中に預けられるなど、駅の近辺や都心でも保育園が充実しているが、そういう保育園には園庭がなかったり、繁華街にあったりする。娘が4歳を迎える頃、「娘が思い切り走り回れる、広々としたところに引っ越したい」と夫婦で移住の話が持ち上がった。
ルーツのある鳥取をはじめ各地を探し見つけたのが、京都の森の中にある幼稚園。子どものためになら、生き方や暮らし方も自然に変えてしまえる自分に驚いたという。
教育への関心が深い三木さん夫婦は、「京都で学校を設立しよう」と話し合っていたが、妻が以前インターンで働いたことがある都内のコミュニティ・スクールを引き継ぐことになり、東京へ戻ってきた。現在、娘は地元の小学校に籍を置きつつ、そのスクールに通っている。
"課題"として背負わされていた子づくり
三木さんは東京育ちだが、父は鳥取県出身。三木さんも、鳥取にいる祖父から後継ぎを期待されて育った。家事シェアを通して新しい家族の形を提案する三木さんだが、「直系の長男として将来は地元に帰る、と今でも思っています」と話す。
三木家の墓は地元の山の一角に約30墓も集まるほどで、「娘が1歳のときに祖父は亡くなったんですが、その前に墓を建て替えていました」と三木さん。「墓も維持するのも墓じまいをするのも、お金もかかるなど、いろいろ大変なので僕の代までで整理し、娘にはしがらみを引き継がせないつもりです」。
自身が欲しいと願う以前に、”課題”として背負わされていた子づくり。しかし、その毅然とした口調からも、三木さんが娘を大事に思う気持ちが伝わってくる。
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