この「河原町高層住宅団地」の設計者は、建築家の大谷幸夫さん(1924–2013)である。
大谷幸夫さんと聞くと、建築に詳しい人ならば、国立京都国際会館を思い出すだろう。終戦の翌年に東京大学第一工学部を卒業し、建築家・丹下健三さんの片腕として広島平和記念資料館や旧東京都庁舎などの設計に参加した。
1960年に丹下研究室を辞し、翌年に設計連合を設立。このとき、日本で初めて行われた本格的な公募型設計競技で国立京都国際会館の設計者に選定された。そして1967年に大谷研究室を発足し、金沢工業大学本館、沖縄コンベンションセンターなどさまざまな作品を手がけた。
また、大谷さんは設計実務の傍ら大学で教鞭もとっている。1964年に東京大学工学部都市工学科助教授に就任し、1971年に教授に。1984年に定年退官し、東京大学名誉教授となる。千葉大学の教授も務め、1989年に定年退官した。その後、株式会社大谷研究室の代表として設計活動にあたった。
なぜ逆Y字の住棟を作ったのか
なぜ大谷さんは逆Y字の住棟を作ったのか。そこにはどのような考えが反映されているのか。筆者は「河原町高層住宅団地」の設計について知る人を探した。
河野進設計事務所の河野進さんは、大谷研究室出身の建築家だ。東京大学工学部都市工学科で大谷さんや丹下さんの講義を受け、卒業後に大谷研究室に加わる。13年間、大谷研究室で建築設計に携わり、独立後も関わりを持った。
2009年には大谷幸夫+大谷幸夫研究会として刊行した書籍『建築家の原点』において、インタビュアーとして参加。建築家・大谷幸夫の思想や言葉を直接聞いたひとりである。
河原町高層住宅団地の第1期竣工を迎えたのは1972年のこと。河野さんが大谷研究室に加わったのはその前年だ。工事中の逆Y字の住棟をわくわくしながら見て回ったと振り返る。
「当時の団地は平行配置で建てられるのが一般的で、味気がないため人が集まる広場を作ろうという議論がありました。多くの人が住棟に共有の広場を取るアイデアを出していましたが、大谷先生の内部に空間を取った逆Y字には『おー!』となりましたね。そういう意味で注目を集めた建築だったと思います」(河野さん)

この時期は都市部へ人口が集中し、住宅が無秩序に建てられていた頃。河原町の団地計画には、住戸をできるだけ収容し、日照の確保や、緑の空間のある健康で居住性の高い暮らしが求められた。
「住宅をとにかく作れという時代です。河原町は“ヘクタール1000人”という今では考えにくい人口密度で計画されました。そのため住棟を高層化して密度を稼ぐという考え方が生まれたのです」(河野さん)
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