第2次世界大戦後、今関の予見した花粉症との戦いは現実のものとなる。ただし、そこでの「敵」は外来植物だけではなかった。
スギ花粉症「発祥」の地、日光
戦後の荒廃が過去のものとなり、日本が高度経済成長期の真っ只中を突き進んでいた1963年の早春。
東京医科歯科大学(現:東京科学大学)の大学院で研究に取り組んでいた耳鼻咽喉科医、斎藤洋三は、先輩医師らの仕事を引き継ぐ形で栃木県日光市に派遣され、古河電工日光電気精銅所附属病院(当時)で地元の人々の診療にあたることとなった。
明治時代に足尾銅山の精錬所として設立された工場は、戦後復興の勢いの中で活発に稼働を続けていた。病院も大所帯となり、開業医が乏しい山間において地元の医療をほぼ一手に担っていたという。
さて、斎藤の着任と時を同じくして、耳鼻咽喉科には似たような症状を抱える患者が次々と訪れていた。主な訴えは、くしゃみや咳、サラサラとした鼻水、鼻詰まり。目や喉にかゆみが出ている患者もいた。今の私たちにもすっかりおなじみの症状である(※2)。
患者たちの鼻水にはアレルギー反応に関わる白血球の一種、好酸球が多く含まれていた。詳しく話を聞いてみると、症状は毎年3月から4月にかけて表れており、それ以外にはほとんど出ないという。そこで斎藤らが疑ったのが、季節限定で飛ぶ物体、すなわち花粉に対するアレルギーだった。
この数年前には、東京大学内科物理療法学教室(当時)の荒木英斉が詳細な研究を行い、東京と神奈川の数百名の患者の間でブタクサ花粉症の存在を確認していた(※3)(※4)。
斎藤らは日光地域に飛んでいる花粉の種類と量を調査し、この時期はスギ花粉が圧倒的多数を占めることを発見した。世界最長の杉並木「日光杉並木」の終着地で、古くからスギの産地として知られた日光ならではである。
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