「デジタル赤字」が示す、日本産業の真の課題 「人が資源」の日本が、デジタルを捨てるのか?
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広がるデジタルサービスとその代償〜拡大する日本のデジタル赤字
われわれの暮らしは、さまざまなデジタルサービスであふれている。コロナ禍を機にオンライン会議システムが当たり前に使われるようになった。企業の基幹的な情報システムにも、クラウドサービスが浸透している。家に帰れば、動画配信サービスで映画やドラマを楽しむ。著名人のSNSや動画サイトで知った商品を、ECサイトで即購入することも多いだろう。これらのデジタルサービスの大半を提供しているのは、「ビッグテック」と呼ばれる海外の巨大ICT企業である。われわれは意識せずとも、これらのサービスを利用するたびにビッグテックに対し何らかのフィーを支払っている。
その結果として、近年急拡大しているのが「デジタル赤字」である。クラウドサービスの利用料や、PC・スマホ向けのOSやアプリのライセンス料、動画・音楽配信サービスの著作権使用料など、国際収支でのデジタル関連項目の支出超過を指す。
デジタル市場のビッグテックによる寡占の弊害は以前から指摘されていたが、興味深いのは、この論点が「デジタル赤字」という言葉で表現されたことで、日本のビジネスパーソンの間で今まで以上に広く認識されるようになったことだ。実はMRIの研究チームが、2023年9月に発表した提言レポートで「デジタル関連サービスの赤字」として言及したことが、1つのきっかけになっている。
デジタル赤字はなぜこれほどの注目を集めたのか。1つはやはり、金額規模のインパクトだろう。2024年のデジタル関連収支※1は6.7兆円もの赤字となっている。2014年は2.1兆円の赤字だったから、10年あまりで3倍以上に拡大したことになる(図1)。しかもこの赤字額は、同じサービス収支の項目で比較すると同年のインバウンドによる5.9兆円の黒字(旅行収支)を大きく上回る。国を挙げて取り組むインバウンド施策の効果をすべて打ち消す金額を、われわれはビッグテックなどに支払っているということだ。
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デジタル赤字が注目されたもう1つの理由は、「日本のICT産業の競争力低下」という現実を象徴的に示したことだ。国内のICT事業者がビッグテックなどに比べ魅力的なサービスを提供できず、収益機会を奪われたことが、デジタル赤字拡大の大きな要因となっている。例えばクラウド市場のシェアを見ると、2011年度時点では、市場シェア上位5社のうち3社が日本企業だった。それが2020年度には、上位5社のうち日本勢は1社に減り、市場シェアも大きく減退している(図2)。

「天然資源の乏しい日本が、原油を輸入に頼るのは仕方ないともいえます。しかしデジタル産業はそれとは違って、価値創造の源泉は“人”です。だからこそ日本もこの分野に注力することで、高い競争力を保ってきました。ところが近年、ビッグテックの成長が目覚ましいとはいえ、日本のICT産業の競争力は大きく低下しています。MRIには『資源のない日本がこのままデジタルまで失ってもよいのか?』という問題意識がありました。それを『デジタル赤字』という概念で打ち出したことで、ICT産業だけの課題ではなく、日本経済全体の課題として広く認識されるようになったと思います。政策検討の場でもデジタル赤字が論点となる機会が増えてきました。その意義は予想以上に大きいものでした」(MRI研究員・西角直樹氏)
デジタル赤字=悪ではない。攻めのDXで赤字を上回る収益を目指せ
では今後、日本はこの「デジタル赤字」にどう向き合えばよいのだろうか。
まず前提として認識しておきたいのは、デジタル赤字は必ずしも悪い面ばかりではないということだ(図3)。そもそも「赤字」という表現からマイナスのイメージを受けやすいが、企業業績の収支と異なり、国際収支項目における赤字はそれ自体が悪いわけではない。

「日本のあらゆる産業でDXが進んだ結果として、デジタル赤字が拡大したという面もあります。『デジタル赤字が増えるから、ビッグテックのサービスを使うのをやめよう』と考えたりせず、海外のデジタルサービスをどんどん使って業務の効率化や新たな事業創出に生かしていくべきです。デジタル赤字が拡大したとしても、海外に支払った使用料以上の収益をDXによって稼ぎ出していく発想が重要です」(西角氏)
現状では、日本企業が取り組むDXは、業務オペレーションの改善や既存ビジネスモデルの見直しなど、いわゆる「守りのDX」が中心となっている。これももちろん重要だが、稼ぐ力を高めるには、デジタル技術を高付加価値製品や新事業の創出に結び付ける「攻めのDX」が必要となる。
「日本の大手エンジニアリング企業が、プラントのデジタルツインを構築する専門の子会社を設立し、デジタルツインを活用してプラントの設計・建設・保守を支援するサービスを開発、外販まで行っているという例があります。同社をインタビューした際、『デジタルツインを作ること自体はICT企業でもできるが、プラントの設計や建設、保全などに関するノウハウは当社の強み』とおっしゃっていたのが印象的でした。自社の強みとデジタルをどのように組み合わせれば価値創造につながるのかを考え、挑戦していく姿勢が攻めのDXには重要です」(MRI研究員・綿谷謙吾氏)
「電力制約」を契機に、日本のICT産業の競争力復活へ
非デジタルを含むさまざまな産業での攻めのDXと同時に、中長期でICT産業の競争力を復活させていくことは重要だ。ビッグテックが圧倒的に強いとはいえ、今後デジタル分野への注力を怠れば、これまでの貴重な技術の蓄積や人的資源までが日本から失われてしまうだろう。「デジタル赤字」とは、日本がそうした事態を避けるための警鐘ともいえる。
「日本企業がビッグテックを逆転するのは難しいが、直面する脅威にうまく対応できれば、勝負できる領域は十分ある」と綿谷氏は強調する。その脅威とは、ズバリ「電力制約」だ。
近年は日本でも、半導体工場の国内誘致やビッグテックの国内でのデータセンター新設、生成AIの普及などにより電力需要の増加が予想されている※2。中でも生成AIの影響は大きく、性能向上と需要の増大に伴いデータセンターの計算量が爆発的に増大し、電力消費は急増する可能性がある。
企業や個人がデジタル技術を制約なく活用できるよう、電力制約の問題に対応できれば、日本のICT企業が国際競争力を強化する契機となりうる。とくに期待できるのは省電力化に資するような生成AIの基盤モデルの開発だ。現在広く普及している大規模基盤モデルの生成AIは、あらゆる用途で活用できる反面、計算量が多くなりがちで、電力消費が大きい。そこで、電力消費も投資額も小さめの、特定用途に特化した小規模基盤モデルに注力していくことが、有効な競争戦略と考えられる(図4左下)。
「日本企業がとくに優位性を発揮できるのは、特定用途向けのB2B分野です。B2B分野は市場が産業ごとに細分化されており、個社へのカスタマイズなどモデルの多様性が求められます。顧客企業とすり合わせをしながら仕様を固める必要などがあり、手間はかかりますが、商習慣や文化などを理解している日本企業に強みがあります」(綿谷氏)

ビッグテックは今後も高い優位性を維持していくと考えられるが、一方でICT分野は技術進化が速く、メインプレーヤーが変わりやすい面もある。すでに国内でも、省エネや特定産業に特化した生成AI基盤モデル開発の萌芽が見られ、日本発のAI新興企業も育ちつつある。国内のICT産業強化を通じて、人材の育成や研究開発力を強化することができれば、将来のゲームチェンジへの備えにもなるはずだ。
今、日本のICT産業に求められるのは、「脅威」を「機会」に変える貪欲な挑戦心だ。デジタル赤字という警鐘を契機として、日本の強みを生かして国際競争力を向上させていくことに期待したい。
松瀬他(2023)「国際収支統計からみたサービス取引のグローバル化」、日銀レビュー・シリーズ
https://www.boj.or.jp/research/wps_rev/rev_2023/rev23j09.htm(閲覧日:2024年4月24日)
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三菱総合研究所 政策・経済センター 主席研究員
1997年三菱総合研究所入社。情報通信分野の競争政策や料金政策などの政策立案支援、ブロードバンドやモバイルの事業戦略コンサルティングなどに従事。現在は研究提言チーフとして情報通信分野の自主研究や大学などとの共同研究、政策提言の取りまとめを担当している。
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三菱総合研究所 政策・経済センター 研究員
生成AI分野やデジタル赤字などの情報通信分野の自主研究・政策提言のほか、欧州のマクロ経済・政治動向の分析に取り組む。情報通信と経済の知見を組み合わせた分析・情報発信を実施。
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