ロシアの広い国土が「弱さ」の裏返しと言える根拠 西側と政治的に隔てられていても繋がっている

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ロシアを今日まで悩ませてきた諸悪の根源は、北ヨーロッパ平野です。この平野はフランスのピレネー山脈からロシアのウラル山脈まで広がり、その内側にフランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、デンマーク、ポーランド、リトアニア、ラトビア、エストニア、フィンランド、ベラルーシ、ウクライナ、モルドバ、ルーマニア、ブルガリア、カザフスタンと多数の国を含有する、非常に広い平野です。過去500年の間にロシアを本格的に脅かした敵勢力は、すべてこの北ヨーロッパ平野からやってきました。

1605年にはポーランド、1707年にはスウェーデン、1812年にはフランス、1914年と1941年にはドイツが、この平野から来襲してロシアを滅亡寸前まで追い詰めました。ここの敵を誘い込む力は凄まじく、1812年から1941年までの侵攻をすべて数えると、ロシアはこの平野だけで33年に1回の頻度で侵攻を受けたことになります(1853年のクリミア戦争を含めます)。

ロシアは弱いから広い

障害物が何もない平野で、敵の侵攻を防ぐにはどうすれば良いか。ここで、ここで、第8代ロシア皇帝エカチェリーナ二世の格言が参考になります。

国境を守る術はない。それを広げる以外には。

平野は攻撃が有利の地形です。ここで防御を有利にするには、少しでも外敵との距離を確保しなければなりません。そこで、ロシアは東方の征服が概ね完了した18世紀以降、西に目を向け、100年かけてウクライナからポーランド、バルト三国、フィンランドまでの一帯を征服、西の戦略縦深を深める大征服事業を敢行しました。

こうした一連の領土拡大は、決して無駄ではありませんでした。1812年にナポレオンのフランス軍がロシアに侵攻した際、ロシア軍は直接の戦闘を意図的に避けつつ後退し、フランス軍の補給線を延ばし切りました。その後、フランス軍がモスクワに到達したとき、ロシア軍はさらにウラル山脈の奥に後退しており、フランス軍はロシア軍の帰りを待っている間に厳しい寒さと食糧不足に苦しんで撤退を余儀なくされました。

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