第1回
国勢調査って、そもそも何?

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“文明国の証”だった国勢調査

そこで杉らは個票による調査を実施して、なんとしても詳細なデータがほしいという欲求を持つようになりました。ただ、ハードルがありました。戸籍の存在です。日本では1872年以降、戸籍が整備され、徴税、徴兵など当時の行政事務は順調に動いており、国の指導者たちはそれ以外の調査の必要性を感じていませんでした。

さらに国勢調査を実施するには、明治30年代の試算で300万円以上、当時の農商務省一省分の年間予算と同規模の予算が必要だったため、指導者たちが敬遠するのも当然でした。そこで杉たち統計学者たちは、国勢調査を国家として予算を組み、全国で実施するよう、指導者らを説得するための方策を練ることにしました。

その一つが、“文明国の証”として国勢調査をアピールすることでした。当時、国の指導者らは、不平等条約を改正するため、日本が欧米列強に伍して対等な交渉ができる相手であることを認めさせることに必死になっていたからです。

当初の実施年は1905年に計画

その象徴が“鹿鳴館(ろくめいかん)外交”です。ちなみに鹿鳴館は、国賓や外国の外交官を接待するため、当時外務卿だった井上馨ら明治政府によって、1883年に建てられた社交場です。鹿鳴館は欧化政策の象徴でした。統計学者たちは、その流れを利用し、文明国と呼ばれる欧米列強はみな国勢調査を実施しており、実施しない国は文明国とみなされないと説得したのです。

さらに、調査名を国の情勢を示す国勢調査と呼び、戸籍と違うということを鮮明にしました。調査自体も人口だけでなく、経済、産業に関する調査を含むものとして提案し、国の指導者たちを説得したのです。

1895年(明治28年)には国際統計協会から日本政府に対して、「1900年世界人口センサス」への参加の働きかけもありました。これには当時の首相、伊藤博文も高い関心を持ち、そこから請願活動が一挙に高まることになりました。そして1902年、ついに議員立法で国勢調査に関する法案が成立されたのです。

当初、国勢調査の実施が計画されたのは1905年でした。ところが、1904年から日露戦争が始まり、戦費調達のため国家財政が逼迫、調査は延期されてしまいます。しかし、統計学者はその後もあきらめず、請願、陳情、建議書を繰り返した結果、ついに1920年、第1回国勢調査が実施される運びとなったのです。ちなみに杉は、第1回調査を見ることなく、1917年に亡くなっています。

100年データとしての国勢調査

統計学者たちの尽力で始まった国勢調査は、その後、国の重要な事業になっていきます。1945年は戦争の影響で中止されましたが、戦後すぐに1947年から臨時調査が再開されています。この年は外地からの引揚者、復員兵などで一挙に人口が増えた年です。戦後復興の政策立案をするために、その情勢を正確に把握する目的で急遽、実施された調査でした。

1950年以降、国勢調査は再び5年ごとに実施されるようになりました。1960年の調査からはコンピュータが導入されました。1975年には35年ぶりに沖縄県が参加しました。調査内容も、高齢者の統計や通勤・通学時間のデータの充実が図られるなど、少しずつ姿を変えつつも、日本の最も重要な統計調査として継続的に調査されてきたのです。

こうして国勢調査は、当初の統計学者たちの想いを叶える以上に、国の将来を予測するうえで、非常に重要なデータとなっていきます。

前述したように、選挙区の区割りや地方交付税の配分、市町村の合併などは国勢調査のデータが基本になります。自治体が中長期の計画を立てるときも、自分の町の将来人口がどうなるのか。そうした人口推計も国勢調査を基につくられるのです。

5年後の2020年には国勢調査が始まって以来、100年目の年を迎えます。長期間にわたって蓄積された国勢調査のデータは、まさに日本にとって類のない貴重なデータと言えるのです。その活用も、今後ますます重要性を増していくはずです。その意味でも、国勢調査は、国民にとって非常に意義のある調査と言えるのです。