「AI×生体情報」で人間の心理状態を推定する デジタル技術によるコミュニケーションの拡張

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生理情報や行動情報を計測・データ化し、それらを分析することで、心理情報を間接的に推定する技術が近年急速に進展している。その活用により、さまざまな社会課題の解決も期待される(画像:Getty Images)  
AIを活用して生体情報を高速かつ高精度に解析し、人の心理状態を推定する技術が続々と開発されている。個人の心理状態を把握することによるサービス開発はもとより、その時々で異なる心理状態に適した働きかけや、デジタルコミュニケーションの変容にも期待が寄せられている。利便性とプライバシーのバランスを考えながら、この技術を生かして社会課題を解決する研究に取り組む、三菱総合研究所(MRI)の研究員・但野紅美子氏と中村裕彦氏に話を聞いた。 

脈や音声などから心理状態を推定する技術とは 

人の生命活動の過程で得られる「生体情報」は、心拍や呼吸、体温、汗や唾液の成分などの「生理情報」、音声や顔の表情、身体動作などの「行動情報」、そして感覚や感性など心の状態である「心理情報」の3つに大きく分けられます。このうち心理情報は、直接的な計測が極めて困難です。心理情報は主観性が大きく、同じ経験を受けても感じ方もかなり異なり、この感じ方の程度を客観的な数値として測定する手段がまだないので、直接計測できないのです。しかし生理情報や行動情報を計測・データ化し、それらを分析することで、心理情報を間接的に推定する技術が、近年急速に進展してきました。そしてそれを利用した商品も登場しています。

例えば三菱電機は2023年、感情を推定するセンサー「エモコアイ」を搭載したルームエアコンを発表しました。「エモコアイ」は室内にいる人の脈を非接触で計測し、これを独自のアルゴリズムで解析することで、「没入」や「落ち着く」、「眠気」や「緊張」といった人の感情を推定します。この情報に、人の位置や表面温度、部屋の床・壁の位置や温度ムラなどからそれぞれの人の体感温度を検知して自動で空調制御を行う赤外線センサーと組み合わせることで、「人の気持ち」に応じてより快適な気流にコントロールすることを目指すとしています

また音声から心理状態を可視化する技術や、顔の表情をデータとして捉える表情解析技術も飛躍的に進化し、サービスの提供も始まっています。これらはコールセンターや人事面接、マーケティング、オンライン授業や会議の集中度計測、営業活動改善など、多様なサービスへの適用が期待されています。

音声や顔の表情を解析し、心理状態を推定する技術は、コールセンターや人事面接、オンライン授業など多様なサービスへの適用が可能とされる(画像:Getty Images)

これまでも、ウェアラブルデバイスで心拍の変動を捉え、個人のストレスレベルを計測するといった技術は存在していました。しかし、生体情報と心理状態の相関関係が複雑な場合、心理状態の推定は極めて難しかったのです。それがAIの活用で、手作業によるデータ解析では対応しきれなかった大量の生体情報を高速かつ高精度に解析できるようになりました。先ほど触れた表情解析技術は、顔の各パーツの動きを解析し、膨大な組み合わせから感情を特定する必要があるため、AIによって実用化が加速すると期待されています。また心拍や呼吸、皮膚の温度など、複数の生理情報を組み合わせて解析することも、AIの活用によって可能になり、より精度の高い心理状態を把握できるようになると考えられます。

心理情報の推定技術はどんな事業領域に活用できるか 

生体情報の解析によって心理情報を推定する技術は、どんな領域に応用できて、どのような社会問題の解決に寄与できるのでしょうか。私たちはその候補として、次の5つの事業領域を想定しています(図)。

図 心理情報推定技術の活用が期待される事業領域

「モビリティ・自動車」領域では、車載カメラだけではなく、座面に設置できるセンサーも開発され、より多くの生体情報を取得できるようになっています。AIで複数のデータを瞬時に統合することで、ドライバーの疲労状態や集中力をリアルタイムで評価し、安全運転をサポートすることも可能になるでしょう。

「小売り・マーケティング」領域では、例えば店舗内のセンサーで顧客の表情や動きを把握し、特定の商品に興味を示した瞬間に関連商品の広告を表示して、購買意欲を喚起するといったことが可能になるかもしれません。

「ヘルスケア」領域では、心拍やストレスホルモンなどの生理情報をAIが解析し、ストレスや不安を早期に検知して、個別に最適なリラクゼーション方法を提案できるでしょう。さらに、患者ごとの詳細なデータを蓄積し、それぞれに最適な治療方法やリハビリ手法を導き出し、治療効果を飛躍的に向上させることが期待できます。

「教育・学習」領域では、AIが生徒の表情や行動を解析し、注意力が散漫になった際に休憩を促すなどして、学習効果を最大化するといった使い方が考えられます。

「労働衛生」領域では、社員が仕事に集中できているか、疲れていないかなどを客観的な指標として把握して、健康管理や事故防止のために対策を講じることができるでしょう。

店舗内のセンサーで客の表情や動きを把握し、特定の商品に興味を示した瞬間に関連商品の広告を表示して、購買意欲を喚起することができるかも(画像:Getty Images)

このように多様な活用が期待される一方で、心理情報を含む生体情報は極めて個人的なものであるため、非常に慎重に取り扱うべきであることは当然です。データの収集・解析・利用に際しては、個人の同意を得ることが必須であり、情報の取り扱いについても透明性を確保しなければなりません。データのセキュリティ対策も重要な課題です。また、AIによるデータ解析が誤った結論を導く可能性もあるため、人間の監視や判断で修正する必要もあります。

心理情報の高速・高精度推定が行動変容に与える影響

私たちが抱えるさまざまな社会課題を解決するうえで、社会制度や企業の事業などを改革するのと同時に、人々の意識や行動を変えることが重要です。心理情報を科学的に高速かつ高精度で推定できるようになると、人々の行動変容に大きな影響を及ぼすと考えられます。

まず、行動を促す「介入」(働きかけ)を個別最適化できるようになります。従来は行動科学や行動経済学に基づき、人間の認知バイアスや行動特性などの一般的傾向を基にして働きかけの方法の設計を行うことが一般的でした。しかし、多くの人にとってはやる気が起きる働きかけでも、ある人にとっては不快に感じる、といったこともあります。また同じ人でも、状況に応じて好みの働きかけの方法が変わり、例えば疲れているときには「簡単にできるもの」が好まれるといったこともあります。今後はAIによる解析の高度化によって、細かい粒度で個人の特性を捉え、一般的な傾向ではなく、より個人にフォーカスし、かつそのタイミングの心理状態に適した働きかけが実現できるでしょう。

また、心理状態に基づく働きかけをリアルタイムに行い、すぐにフィードバックを受けることで、最適な働きかけを短期間でつくり上げることが可能になります。人間の行動理由を知るためには、従来はアンケートや電話調査などで詳細な調査を行う必要がありましたが、リアルタイムで心理状態を把握できるようになれば、フィードバックサイクルが大幅に速くなります。また、本人がやる気があるときや最適なタイミングで働きかけることで、効果的な働きかけが可能になります。

さらに、社会課題解決の取り組みの持続可能性を高めることができるようになるでしょう。社会課題に対する施策は、購買促進のようにリターンをすぐに得られないため、大規模で継続的な投資が難しいという問題がありました。しかし、心理情報に基づくリアルタイムな働きかけとフィードバックを行うことで、従来は効果が出にくいために投資が見送られていた分野でも、効果的な働きかけを行うことができ、ビジネスとしても成立する可能性が高まることが期待されます。

適度な運動を促したり、高齢者に寄り添ったり

心理情報の推定によって人々の行動変容を効果的に促すことで、どんな社会課題が解決できるのか、具体例を挙げてみましょう。

一般に、食生活や睡眠に関する行動変容を促すことに比べて、運動に関する行動変容を促すことは困難だとされています。運動は長期間続けなければ効果が出なかったり、ジムに行く準備が面倒になったり、天気の悪い日にはジョギングやウォーキングに行くのがおっくうになったりするなど、多くの心理的ハードルを乗り越えなくてはいけないからです。しかし、心理情報の推定によって個々人の特性に合わせた適切な働きかけができるようになれば、より多くの人が日常的に適切な運動に取り組むようになる可能性が高まることでしょう。これによって、生活習慣病や認知症の予防、医療費・介護費の削減といった、日本の社会課題の解決が期待されます。

心理情報の推定によって個々人に合わせた適切な働きかけができるようになれば、多くの人が日常的に適切な運動に取り組めるようになる可能性が高まるだろう(画像:Getty Images)

また高齢になると、健常者と認知症の中間に当たるグレーゾーンであるMCI(軽度認知障害)になる人が増えます。MCIになると気力が衰え、コミュニティーに関わることがおっくうになり、認知症に移行するリスクを高めるのです。そこで、心理情報に基づいてMCIの高齢者に寄り添い、心労なく行動できるように支援する働きかけが重要となります。チャットボットや小型ロボットなどにこうした機能を搭載することで、高齢者の自立した生活を支えることができるようになるかもしれません。

人間のコミュニケーションを強化し、拡張する新技術

最後になりますが、心理情報を推定する技術を使った新たなデジタルコミュニケーションは、人間のコミュニケーションを強化し、拡張するものであると考えられます。人間のコミュニケーションは言葉だけでなく、ニュアンスや身体言語を通じて意思疎通を図るものです。これまでコミュニケーションスキルに長けた人に限られていた「相手の心を読むスキル」が、機械によって補助されることで、コミュニケーションの阻害を減らせる可能性があります。対面だけでなく、遠隔のオンラインやSNSなどでデジタル上の文章からも相手の意図を理解できるようになれば、誤解や炎上のリスクも減少するかもしれません。一方で、デジタルコミュニケーションによって他人に知られたくない心理情報まで知られてしまう危険性があるので、どこまで踏み込んでいいかは社会の合意が必要となります。

今後のさらなる技術進化によって、さまざまなシーンでコミュニケーションに大きな変革がもたらされ、生活はより豊かで快適なものとなり、多くの社会課題が解決に向かうことが期待されます。私たちMRIは、顧客やコミュニティーの皆様との共創によってこの変革の一翼を担い、さらに豊かなコミュニティー形成に寄与していきたいと考えています。

但野紅美子
但野紅美子(ただの・くみこ)
三菱総合研究所 先進技術センター
ヘルスケア分野、環境分野などのさまざまな領域において行動科学・行動経済学的な知見を活用し、人々の行動変容の促進をサポートすることで社会課題解決を目指している。
中村裕彦
中村裕彦(なかむら・ひろひこ)
三菱総合研究所 先進技術センター
材料・デバイス分野を中心に、技術起点調査&コンサルティング業務に従事。対象分野は宇宙環境利用、ナノテクノロジー・材料、中性子科学など多岐にわたる。2020年より先進技術センターでバーチャルテクノロジーやAIロボティクス関連研究に従事。博士(理学)。
 
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https://www.mitsubishielectric.co.jp/home/kirigamine/special/emocotech/index.html

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