「はやぶさ2」試料分析にかける研究者たちの情熱 「生命の起源」解明に向けたサンプル分析の裏側
リュウグウから帰還した玉手箱:「5.4グラム」の宝物
2003年の打ち上げ後、7年間の旅を経て世界で初めて、岩石質の小惑星(イトカワ)の表面から試料を採取し地球に持ち帰った「はやぶさ」。その後継機である「はやぶさ2」は、炭素質小惑星リュウグウを探ることを目的に開発された。
なぜリュウグウを目指すことになったのか。小惑星は約46億年前に太陽系が形成される中で、ちりやガスが集まって生まれた天体とされている。地球のような惑星は、その小惑星が衝突合体して誕生したという説が濃厚だ。
小惑星の代表的な存在である炭素質小惑星(「Carbonaceous=炭素質」から、C型小惑星ともいう)は、火星と木星の間を中心に数十万個存在する。リュウグウはその1つであり、生命の誕生に不可欠な水や有機物が比較的多く含まれると想定された。これらは太陽系の誕生以来、地球のような惑星になる前の小天体であり、はやぶさ2プロジェクトは、その実像に迫る科学的な挑戦であった。
地球上に存在する物質を調べるだけでは、生命の起源の謎を解き明かすことは難しい。しかし、小惑星の物質を分析することでヒントを得られる可能性がある。そのため、はやぶさ2は、リュウグウに存在する物質を持ち帰ることをミッションとして課せられたのだ。
2014年12月3日、鹿児島県の種子島宇宙センターから打ち上げられたはやぶさ2探査機は、2019年2月22日にリュウグウへ着陸。インパクターを発射し、世界で初めて小惑星に人工のクレーターをつくり、内部の岩石や砂を採取することにも成功した。
こうして日本時間2020年12月6日、試料を格納したカプセル(玉手箱)が地球に帰還。中には予想をはるかに上回る5.4グラムのサンプルが入っていた。これを調べるため、国内外の大学や研究機関から研究者が国際公募で選抜され、分野ごとに6チームに分かれて試料の初期分析を進めることになった。
そのうち、約30ミリグラムのサンプルを託され、可溶性有機物分析チームのメンバーとして分析に当たったのが、JAMSTECの高野淑識(たかの よしのり)氏だ。高野氏は可溶性有機物分析の抽出作法について、たとえを交えてこう説明する。
「コーヒー豆を砕いてお湯を注ぐと黒い液体が抽出されます。この熱水抽出の成分を含む液体にはカフェインやポリフェノールなどさまざまな化合物が入っているわけですが、成分を詳しく知るには、化合物を上手に分離して、正確に検出・同定しなければいけません。可溶性有機物の解析手法は、これに似ており、水やアルコールなどに溶ける成分を抽出し、どのような物質が含まれているのかを調べる方法です」
精密な分析の結果、まず、炭素(C)、窒素(N)、水素(H)、酸素(O)、硫黄(S)などの軽元素が高濃度で存在することがわかった。各元素の同位体組成も明らかになった。
次に、すべての地球生命を構成するタンパク質に含まれるアミノ酸、RNAに含まれる核酸塩基の1つであるウラシル、生命の代謝に不可欠な補酵素の1つであるビタミンB3(ナイアシン)などを検出した。これは生命誕生前の分子進化と生命の起源解明の手がかりとなる貴重な情報だ。
さらに2023年9月には、始原的な「塩」や「有機硫黄」の成分が見つかったことも発表。約2万種を超える有機分子群の検出成功をはじめ、新事実が続々と明らかになっている。
リュウグウ試料の分析・新発見を支えた企業の存在
とりわけ「塩」や「有機硫黄」の成分の発見において、高野氏が必要不可欠だったと振り返るのが、サーモフィッシャーのイオンクロマトグラフ‐質量分析計(IC-MS)システムだ。イオンクロマトグラフ(IC)とは溶液中のイオン成分を測定する装置で、工業、医薬品、食品分野の品質検査など幅広い用途に活用されている。
質量分析計(MS) は、イオンクロマトグラフ単体では得られない化合物の質量を計測する装置で、IC-MSシステムはこの2つを接続した複合システムだ。測定したい化合物の同定・定性能力が極めて高いことから、水道水や排水などの水質分析や、がん検査に使われる腫瘍マーカーなど、高感度な分析を必要とする場合に用いられている。
リュウグウのサンプル分析は、初期分析により多様な有機物群の存在が明らかになった一方で、可溶性成分のうちイオン性物質は不明のままだった。イオン性物質とは、塩(塩化ナトリウム)に代表されるような、陽イオン性と陰イオン性の電気的な作用で結合、または電離している化合物のことを指す。
とくにサンプルに含まれる塩の実態を明らかにすることは、始原的な「しょっぱさ」の起源物質、ひいては、地球の海に塩分が含まれている謎を解き明かすヒントにもなる重大なミッションだった。こうした謎をひもとくためには、サーモフィッシャーのIC-MSシステムが必須だったという。
IC-MSシステムを活用したリュウグウのサンプル分析をサポートしたサーモフィッシャーの山口美保子氏は、製品の特性について次のように説明する。
「今回のIC-MSシステムでは、精密な質量が測定できるタイプのMSを使用しており、炭素や水素、窒素などから構成される有機化合物の質量情報を小数点以下4桁まで正確に測定することが可能です。サーモフィッシャーでは、測定データを基に、私のようなサイエンティストが有機化合物の種類や量を解析するサポートをしています」
同じくサンプル分析に携わった同社のサイエンティスト鈴木隆弘氏は、今回の分析の難しさをこう振り返る。
「リュウグウのサンプルは、可溶性成分を熱水や塩酸などを使って段階的に抽出し、得られたイオン性物質をIC-MSシステムで計測し、精密な解析を行いました。これは物質の破壊を必要とする分析であり、サンプルは元の状態に戻りません。リュウグウのサンプルは非常に微量であり、失敗できないというプレッシャーがありました」
サンプルはサーモフィッシャーのラボに持ち込まれ、分析を開始。「一世一代の大仕事とあって最高の緊張状態でしたが、不思議と心地よく、山口さんや鈴木さんといったIC-MSシステムのエキスパートによるサポートを得て、さまざまなイオン性物質が明らかになりました」と話す高野氏。中でも驚いたのは、地球上にほぼ存在しない有機硫黄分子が発見されたことだったという。
「地球では、ある活火山の噴火後に一瞬だけ出現した報告例があるだけで、極めて酸素に弱く、希少な分子種。リュウグウにこの有機硫黄分子群が存在したということは、水・有機物・鉱物の相互作用による化学進化が起きている証しなのです。この成果は、地球が誕生する以前の太陽系で物質はどのように存在していたのか、それが太陽系でどのように進化したのか、私たちに重要なヒントを与えてくれました」(高野氏)
生命の起源を探究する「コンサート」はまだまだ続く
発見された「塩と有機硫黄分子」に関する論文は、国際的な科学誌に掲載され、高野氏をはじめ山口氏や鈴木氏も共著者に名を連ねた。
サーモフィッシャーは、なぜ責任重大な小惑星のサンプル分析を支援したのか。それは、「未知の領域を探究する」というポリシーがあるからだ。執行役員の岡田敦朗氏は次のように話す。
「未知の領域の探究に関連する最先端研究への貢献は、サーモフィッシャーの非常に重要なテーマです。その観点からリュウグウのサンプル分析の協力を通して、生命の起源を解き明かすという社会的意義の大きい取り組みの一助になれたことに、非常に感銘を受けています。
当社では、宇宙だけでなくライフサイエンスの分野での創薬や、化学工業のマテリアル開発などを含め、産官学での連携を活発に行っており、新しい材料や基礎研究の開発に有用なソリューションを提供してきました。今後も、挑戦への意欲を持ち続けながら、先端的な研究による民間企業の品質管理や生産技術の開発にも寄与していく考えです」
現在、リュウグウのサンプルは、サーモフィッシャーのソリューションに支えられながら、着々と分析が進んでいる。すでにさまざまな新事実を明らかにしてきた高野氏だが、まだ見ぬ未知の領域にも意欲を燃やしている。
「はやぶさプロジェクトのキックオフは、1985年に開かれた小惑星サンプルリターン小研究会にさかのぼります。そこでは太陽系科学探査の目標を満たすべき5条件として、『科学に新しい視野をもたらすもの』『広範囲の科学者・技術者が情熱を持てるもの』などが掲げられました。今回、はやぶさ2が持ち帰ったサンプルの分析はこれらの条件を満たすものであると思っています。
そのうえで、私自身としては、JAMSTECという国立研究開発法人としての成功基準はありつつも、さらにもっと上が見たい。未知の研究を目標以上に成功させる『エクストラサクセス』を目指すというのが、化学者としての私のモチベーションです」
2023年9月には、米国の探査機オシリス・レックスにより回収された小惑星「ベンヌ」のサンプルが、無事に地球へ帰還した。
「生命の起源の探究は、まだ序章といったところ。自身の好きな楽曲『ボレロ』の旋律のように、そして、専門である化学のオクターブの法則のように、ベースラインとなる自然界の法則性、多様な音色との響き合いの瞬間が楽しみですね。深く琴線に触れるようなコンサートは、まだまだ続きます」と高野氏は熱を込める。
はやぶさ初号機の打ち上げから20年。分析技術の高度化も相まって、これまでにないスピードで太陽系科学の謎が解明されようとしている。これからの研究者たちの探究の先にどのような発見が待ち受けているのか、期待が高まる。