がん検診率向上、残業削減にも寄与する「ナッジ」 行動経済学の知見を、社会課題解決の糸口に

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看護師のユニフォームを日勤と夜勤で別の色にする取り組みにも、「ナッジ」の知見が生きている
「案内ハガキの文言を変えただけで、大腸がん検診の受診率が高まった」「ユニフォームを2色にしたことが、看護師の残業削減に役立った」。いずれも行動経済学の研究成果を応用した実例である。なぜこんなことが可能なのか、その答えを導くキーワードは「ナッジ」だ。社会課題を解決する行動変容の手段としても期待されている。

人の行動特性を活用し、自発的な行動を促す 

「ナッジ」という言葉をご存じだろうか。行動経済学における重要な概念の1つで、行動特性に働きかけて人間の行動をより望ましい方向に促す手法である。「注意を引くために相手を軽くひじで小突く」という意味の英語「nudge」に由来する。

伝統的な経済学における多くの理論は、人間が合理的に判断・行動することを前提としてきた。しかし現実には、われわれは日常生活において、必ずしも合理的にばかり動いているわけではない。では、どんな条件下でどのような行動をとるのか? 行動経済学は、心理学や社会学の知見などを取り込むことでそのメカニズムを解き明かしてきた。

「人が行動できない原因はさまざまですが、図1に示すように12のカテゴリーに分類でき、それぞれ特有の行動特性が働いている可能性があります。例えば、『切迫していないので行動を先延ばししてしまう』カテゴリーには、『社会的証明』や『サンクコスト(埋没費用)の誤謬』などいくつかの行動特性が作用していると考えられます」(MRI研究員)

ここでいう社会的証明とは、「多くの人がとっている行動は正しい」と見なしてしまう特性だ。台風の被害が想定される場合は安全な場所に避難することが合理的だが、周囲に避難する人がいないと「避難の必要はない」と判断してしまう。またサンクコストの誤謬とは、すでに支払って回収できない費用にとらわれ、非合理的な判断をしてしまう特性をいう。台風に備えて自宅の窓を補強し、多くの非常食を買い置きした結果、「準備に要した費用が無駄になってしまう」と考えて、避難所に行くという合理的行動が選びにくくなる。

しかし、もしこれらの要因を事前に取り除くことができれば、人々は無意識のうちに合理的な行動を選べるはずだ。経済的インセンティブを与えたり法規制したりするのではなく、行動特性に働きかけて行動変容を促そうというのが「ナッジ」の基本的な考え方である。

意識改革や行動変容などにも応用可能 

ここでナッジの活用事例を紹介しよう。東京・八王子市では大腸がん検診の受診勧奨ハガキに関する次のような社会実験を行った※1。ハガキに2種類の文面を用いたのである。

A:今年度、大腸がん検診を受診された方には、来年度、「大腸がん検査キット」をご自宅へお送りします。
B:今年度、大腸がん検診を受診されないと、来年度、ご自宅へ「大腸がん検査キット」をお送りすることができません。

表現をわずかに変えただけだが、Bのほうが受診率は7%も高まった。行動特性として、人は同じ1000円でも「得する」よりも「損する」方を強く意識し、利得獲得より損失回避を優先しがちになる(プロスペクト理論)。「来年度に検査キットが受領できない」と強調することで損をしたくない気持ちをかき立て、受診率向上につなげることができた。

ナッジを残業削減に活用した例もある。医療現場では日勤から夜勤へ、夜勤から日勤へのスムーズな引き継ぎがなされないことが看護師の残業につながりやすい。熊本市の熊本地域医療センターでは、看護師の日勤と夜勤のユニフォームの色を変えて視覚的に区別できるようにした。この取り組みは残業削減に大きく寄与し、最終的には年間平均残業時間が21時間まで減少したという。

「この成果には、行動特性群における『社会規範』と『多元的無知』が関係しています。『社会規範』とは、社会のルールに沿った行動をとるべきという心理的外圧を意識する行動特性です。また『多元的無知』とは、多くの人が実際には思っていないことであっても、自分以外の人はそう思っていると信じ込んでしまう行動特性です」(同)

これらを看護師の仕事に当てはめれば、ユニフォームの色を分けたことで、残業していることが一目瞭然となり、看護師には勤務時間を守るという社会規範が、医師には残業している看護師に指示を出すべきでないという社会規範の作用が、それぞれ強化された。また、「定時退社はネガティブな見方をされると思い込んでしまい、退社するのを躊躇してしまう」という多元的無知の作用が抑制された。双方の効果が残業削減につながったと考えられる。

ナッジの魅力は、大きなコストをかけたり法規制などで強制したりしなくても、幅広い人々に主体的な行動変容を促せる点だ。これは社会課題解決に向けた機運を高め、それにふさわしい行動を誘引するためにも有効だとされている。例えば、温室効果ガスの削減などだ。

「国立環境研究所の公表資料※2には、国内での直接・間接的な温室効果ガス排出量の約6割が消費者の活動に由来していて、住居・移動・食・消費財にかかる消費活動による排出が特に多いとの結果が示されています。環境配慮行動の促進には、消費者自身の意識や行動変容が不可欠です。自治体や事業者がそのきっかけ作りをしていくことが、ますます重要になってきます。脱炭素に資するライフスタイル転換を促すアプローチとして、行動経済学的な手法に基づいて需要家の行動を変容させるニーズは高まっていると感じています」(同)

またナッジは、企業が経営やビジネスに取り入れる余地も大きい。具体的にはマーケティング領域での活用などが考えられる。

「生活行動を通じて社会課題解決に貢献したいと考える個人が増えています。商品・サービスの購買にとどまらず、社会全体のウェルビーイングを高める生活行動を訴求するようなマーケティングが、企業にも求められていくでしょう。例えばナッジでは、社会的選好や社会規範といった行動特性に働きかける利他的なメッセージをしばしば用います。社会全体のウェルビーイングに関心を持つ消費者に訴えかける上でも参考になるはずです」(同)

今後、企業が成長を続けながら社会課題解決に取り組むためには、社会価値と経済価値を両立させることが不可欠だ。そのための戦略設計ヒントの一つとして、ナッジに基づく行動変容の概念が広く活用されていくよう期待したい。

※1 キャンサースキャンによる「ベストナッジ賞」を受賞した東京都八王子市の大腸がん検診受診率向上事業
※2 国立環境研究所「国内52都市における脱炭素型ライフスタイルの選択肢」
 
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