ポール・アレンは、メモリが潤沢に使える大型コンピュータの上でi8008のシミュレータを作ることに決めた。ワシントン州立大学に戻ったポール・アレンは、大型コンピュータIBMシステム/360上でi8008のシミュレータの開発を始めたが、PDP-10のようにタイムシェアリングでなく、バッチ処理のIBMシステム/360上での開発は、なかなか進まなかった。
実はシミュレータの開発が進んだのは、時間的には先回りになるが、オレゴン州ポートランドにあったTRWでのことである。TRWではポール・アレンの好きなPDP-10が使えた。ポール・アレンは、最初に30ほどのマクロを定義した。次はシミュレータの製作である。まずプログラム開発には絶対に必要なデバッガというバグ取り用のプログラムを作った。PDP-10用のデバッガを改造してi8008用のデバッガを作った。こうしてソフトウェア開発環境が整備された。このマイクロプロセッサのシミュレータを作るという発想はきわめてユニークである。
シミュレータがあれば、ハードウェアが完成する前からプログラム開発ができる。極端にいえば、ハードウェアは存在しなくともよい。まずシミュレータを作ってから開発にかかるという手法はマイクロソフトの伝統として定着する。
デモの悲惨な失敗
この開発環境を使って、ビル・ゲイツは交通量解析プログラムを書いた。とは言っても単に16 チャンネル幅の紙テープを読めて適切に処理できるかどうかというだけである。ポール・ギルバートの作ったハードウェアのテストは1974年5月以降だった。ポール・アレンのいたワシントン州立大学の寮にテレタイプが運び込まれ、ポール・ギルバートの作ったハードウェアに接続された。フロントパネルのスイッチを使って小規模なプログラムを動かしたところ、無事に動作した。
問題はビル・ゲイツの作ったプログラムが動くかどうかである。そのためには16チャンネル幅の紙テープ読取機が必要であったが、とても高価で買えなかった。そこで地元の発明家に頼み、安く作ってもらったが、信頼性の低い代物だった。それが失敗だった。
1974年初夏に、シアトル市とキング郡の技術局の職員に向けて、ビル・ゲイツは自宅のキッチンでデモをおこなった。結果は悲惨な失敗であった。ビル・ゲイツは母親に頼んだという。
「お母さん、この人に言ってやってよ、これは本当に動くんだって」
豪胆な一面もあるが、ヒステリックな一面もあるビル・ゲイツの悲鳴が聞こえて来るようである。
打ちのめされたビル・ゲイツは大枚3400ドルをはたいて、ちゃんとしたテープ読取機を買った。エンバイロ・ラブス・インクのGSー311だった。これを接続して、やっとまともに動くようになった。1974年8月頃である。
1日分のデータ解読料金を2ドルに設定したら、いくつかの自治体が顧客になったという。交通量のデータを記録した紙テープがポール・ギルバートの自宅に送られてくる。彼はそのデータを元に1時間ごとの交通量を示すグラフを作成した。
トラフ・オー・データの名刺には、ビル・ゲイツ、ポール・アレン、ポール・ギルバートの名前があり、会社所在地としてワシントン州シアトル市ノースウェスト・リッチモンド・ドライブ19506番地と書いてある。これはポール・ギルバートの自宅の住所である。
また名刺にあるトラフ・オー・データのロゴは、ポール・ギルバートの兄弟のマイルズ・ギルバートが作った。事業がうまく行きかけたかなと思ったときに、ワシントン州などの州政府が、同様の業務を自治体に無料で提供するサービスを始めてしまい、事業としては見込みがなくなった。
ポール・アレンによれば、トラフ・オー・データの1974年から1980年までの6年間の総収入は6631ドルで、損失は3494ドルであった。利益は3137ドルである。3人で分けて1年当たりに直すと小遣い程度で、とても会社とは言えない。市場調査すらしていなかった甘さである。
TRWとボンヌビル
1972年の暮、TRWが、ワシントン州バンクーバーのボンヌビル電力事業団の配電網に使うリアルタイム・オペレーティング・アンド・デスパッチ・システム(RODS)関係の技術者を急募していた。TRWは1901年に自動車部品メーカーとして出発した。
TRWという名前は、トンプソン・ラモ・ウーリッジという人名の頭文字をつないだものだ。案外知られていないだろう。TRWは次第にミサイルなどの宇宙航空防衛関連事業に積極的に進出した。2002年に宇宙航空防衛関連事業をノースロップ・グラマンに売却するまで、TRWといえば、軍需関係の仕事で有名だった。
またバンクーバーというと、ついカナダのバンクーバーを思い起こしがちだが、ワシントン州南西部のコロンビア川沿いにあり、オレゴン州との州境となっている。ボンヌビルはバンクーバーからコロンビア川を40マイル(64キロ)遡った地点にあり、発電用のダムがある。ここの発電所の発電機は西部の8つの州に電力を供給していた。
RODSは、米国内務省の委託によってTRWが実現しようとしていたリアルタイム・オペレーティング・システム(リアルタイムOS)である。RODSは各地の電力需要を1秒ごとに収集し、需要の多い地域により効率的に電力を供給できるようにするはずであった。
TRWは、DECのPDP-10用のOSであるTOPS-10をリアルタイムOSに改造して実現しようとしたが、当初の楽観的な開発計画の見積りに反して難航していた。そこでTRWは必死になって優秀なプログラマーをかき集めようとした。そこでビル・ゲイツとポール・アレンも呼ばれたのである。
給料が支払われることと、大好きなPDP-10でプログラミングができることに2人は欣喜雀躍した。ポール・アレンは喜んでワシントン州立大学を休学して参加した。ビル・ゲイツはレイクサイド・スクールの卒業単位を全て修得していたので、最終学年の12年生の間は学校に出ず、校外活動に専念してよいという許可をもらって参加した。2人はバンクーバーの安いアパートを借りて1973年1月から出勤した。
スタンリー・キューブリック
ポール・アレンによれば、ボンヌビル電力事業団の制御施設はコロンビア川を横切るように造られていて、その大部分は深い地下にあった。鉄筋コンクリート造り施設の中には、核戦争が起きた際に放射性物質を洗い流すためのシャワールームまであった。ダイヤル錠が付いたいくつかのドアを通り抜けて行くと制御室があった。
そこはスタンリー・キューブリックのSF映画『博士の異常な愛情』に出てくるような部屋だったらしい。ただの電力制御室でなく、核戦争まで意識した戦略拠点として計画された施設だったという。2台の大型コンピュータのPDP-10があり、データ収集用のPDP-11がずらりと設置されていた。
どうして、このような地下要塞のような建物にしたかというと、シアトルにはボーイング社の戦略爆撃機工場があり、戦略爆撃機生産のためには、大量のアルミニウムが必要で、アルミニウム生産のためには電力が絶対不可欠であった。したがってコロンビア川のボンヌビル電力事業団の制御施設は、準軍事施設だったのだろう。ロジャー・セールの歴史書『シアトル 過去から現在へ』の原著182ページのボーイング社の歴史の部分を読んでいたときに気が付いた。
実際にボンヌビルの発電所を訪ねてみたが、米陸軍工兵隊の管理下にあり、小銃を持った歩哨がいた。「武器は持っていないか?」と聞かれ、多少びっくりしたが、それでも気楽に入れたが、深い地下施設については見ることができなかった。5階建てのビルの通り一遍のビルの見学で終わった。ただ、この足許の地面のずっと下の方で、ビル・ゲイツとポール・アレンが働いていたのだなと思うと感慨深いものがあった。
ビル・ゲイツは細々した仕事を割り当てられ、ポール・アレンはシステムに何か問題が起きたときに、自動的に復旧させるためのプログラム・モジュールの開発を割り当てられた。ボンヌビルの発電所プログラムを書いていないときの娯楽は、あまりなかったが、オレゴン州側のグレシャムでおこなわれたドッグレースや、オレゴン州側のポートランド郊外の競馬場にも行ったようだ。またポートランド北東部の映画劇場にもよく出かけた。ビル・ゲイツは愛車マスタングを猛スピードで飛ばしたり、近くのラマカス湖で水上スキーをして脚を骨折したりした。
ポール・アレンがビル・ゲイツとチェスをすると、やみくもな攻撃1本やりのビル・ゲイツを、やんわりかわして負かしてしまったと伝えられる。ビル・ゲイツはチェスに負けるとチェスの駒を全部床にぶちまけたこともあった。非常に戦闘的な性格であることが分かる。ここで、ビル・ゲイツとポール・アレンは伝説的なプログラマーであるジョン・ノートンに出会い、色々教えてもらったという。
ビル・ゲイツのハーバード大学進学と中退
ビル・ゲイツのハーバード入学は1973年の春に決定していた。ビル・ゲイツは、全米育英奨学金を受け取り、ハーバード大学、プリンストン大学、イェール大学に入学を許可された。プリンストン大学、イェール大学には入学辞退の手紙を出した。ビル・ゲイツは、レイクサイド・スクールの12年生の最終学期には出席していたようである。微分積分学の講義には1度も出席しなかったが、試験の成績は1番だった。しかし聴講態度が良くないということで成績はBだったという。大学進学適性試験(SAT)の数学部門では800点満点を取った。
ビル・ゲイツは、レイクサイド・スクールを卒業すると、1973年秋にハーバード大学に行くまでの期間、バンクーバーのTRWに戻って仕事を続けた。ビル・ゲイツは、ポール・アレンとリック・ウェイランドと共同でRODS施設の近くのブランデーワイン・アパートメントに部屋を借りた。初めの頃にはいなかったリック・ウェイランドも途中から参加していたようだ。ビル・ゲイツは、TRWで、RODSの開発だけでなく、深夜の空き時間に、時間割作成プログラムやトラフ・オー・データのプログラムも手がけていた。3つの仕事が同時並行的に進行していたのである。
1973年秋に、ポール・アレンは、ワシントン州立大学に戻り、リック・ウェイランドはスタンフォード大学に戻り、ビル・ゲイツはハーバード大学に向かっていた。1973年秋にビル・ゲイツは、ハーバード大学に入学した。
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