ハーバード大学の数学科1年生には数学21(Math21)、数学23 (Math23)、数学25(Math25)、数学55(Math55)が用意されていた。多変数関数論や線形代数を扱っているのは同じなのだが、証明なし、少し証明する、普通に証明を与える、超エリート向けの4段階になっている。
ビル・ゲイツは、大学進学適性試験(SAT)の数学部門で800点満点を取ったというプライドから1番難しい数学55を選択した。ところがこれについていけなかった。宿題をこなすのに週30時間もかかった。それでも成績はBだった。ビル・ゲイツのプライドは傷つき、そしてドロップアウトの道をたどる。
SATの数学部門で800点満点を取ったということは、素晴らしいことには違いないが、スティーブ・バルマーも、スコット・マクニーリもビル・ジョイも皆800点満点を取っている。この大学進学適性試験(SAT)の数学の問題は、それほど難しくはない。常識的な問題ばかりである。数学に適性のない人を選別はできるが、数学科に向いているかどうかは判定できないと思う。またそんなことは試験の狙いに入っていないだろう。800点満点を過大評価してはいけないのだ。
またハーバード大学の数学科に進学しようとする程の学生の多くは、きわめて早熟で、中学校や高校時代には学校の教科よりずっと先の勉強をしている。たとえば入学前に偏微分や多変数関数論のさわり程度は知っている。代数学だって線形代数どころでなく、もっと進んだ群論などの代数系の理論にも通じている。大学に入って初めて偏微分を知ったのでは、とても追いつけない。だからビル・ゲイツは、ハーバード大学に進学が決まった時点で、コンピュータのアルバイトに精を出すより、本来は大学の初年度生程度の数学を勉強しておくべきだったと思う。
結局、ビル・ゲイツは、ハーバード大学の寄宿舎で賭けトランプをするか、エイケン・コンピュータ・センターでコンピュータ相手に時間を過ごすことが多くなった。結局、数学の天才たちには追い付いていけず落ちこぼれたのである。勉強をしていないのだから当然である。
ポール・アレン、ボストンに引っ張り出される
1974年に入ると、ビル・ゲイツは学業をあきらめ、ポール・アレンと2人でコンピュータ会社を始めようと思った。そのために、まずどこかの会社に就職しようと考え、色々な会社の面接に行った。その中にハネウェルもあった。ビル・ゲイツは、ポール・アレンも推薦した。
ハネウェルから電話をもらって、ポール・アレンはワシントン州立大学を休学してハネウェルに就職することにした。ガールフレンドのリタと一緒に中古自動車の1964年型のクライスラー・ニューヨーカーに乗って3日かかって大陸を横断し、ボストンに着いた。ポール・アレンが当惑したのは、ハネウェルの部長が、「君に仕事は頼まなかったはずだが」と言ったことである。しばらく緊迫したやり取りがあったが、ポール・アレンは結局職にありついた。こういう話はよくあることだ。
ビル・ゲイツとポール・アレンは、その夏、ハネウェルで働いたが、ビル・ゲイツは家族の反対に揺らぎ、秋からハーバード大学の2年生に復帰することになり、ハーバード大学の寄宿舎のカリア・ハウスに落ち着いた。身勝手な裏切りとも言えるだろう。
それでもポール・アレンは、ボストンのハネウェルに留まることにし、ボストン北西のティングスボロに安いアパートを見つけた。ハネウェルでの仕事はミニ・コンピュータ同士を接続するための通信プロトコル(通信規約)の開発であった。1974年11月にはケンブリッジのリンジ・ハウスに引越した。あまり治安のよいところではなかったようだ。11月の第4木曜日の感謝祭の頃、リタはワシントン大学の単位を取るためシアトルに戻った。リタはポール・アレンの前途に見込みなしと愛想を尽かしたのだろう。
オルテア8800用の出現
1974年、ポール・アレンは、エレクトロニクス誌でインテル8080(i8080)を知った。早速、ポール・アレンはビル・ゲイツに「今度のi8080は強力だからBASICを書こう」と言った。ビル・ゲイツは「全く何もないところからBASICを作るのは大変で、またBASICを走らせるコンピュータもないのだから、BASICを作ったところで売れないし、i8080を搭載したコンピュータが発売されたら教えて欲しい」とも言った。
1974年12月のある寒い日に、『ポピュラー・エレクトロニクス』誌の1975年1月号が出ると、表紙にMITS(マイクロ・インスツルメンテーション・アンド・テレメトリ・システムズ)社が作ったi8080を搭載したオルテア8800の写真が載っていた。MITSの最初のMは初期にはマイクロでなく、モデル(模型)だった。模型や科学技術教材を売る会社であった。マサチューセッツ工科大学の略称MITに似せてMITSとしたという。
『ポピュラー・エレクトロニクス』誌の表紙には次のように書いてあった。
オルテア8800用BASICプロジェクト・ブレイクスルー!世界最初のミニ・コンピュータ・キット商用モデル(のコンピュータ)にも対抗できる「オルテア8800」で1000 ドル以上の節約に」
33ページからエドワード・ロバーツ(以下エド・ロバーツ)とウィリアム・イェーツによる記事「オルテア8800 これまで登場した中でもっとも強力なミニ・コンピュータのプロジェクトが400ドル以下(397ドル)で組み立てられる」が載っていた。
i8080の通常の価格は1個360ドルであった。ところがニューメキシコ州アルバカーキに本拠を置くMITSという会社は、大量購入でi8080の価格を1個75ドルに下げさせた。これによって、397ドルという低価格が可能になったのである。
『ポピュラー・エレクトロニクス』誌がオルテア8800の記事を掲載したのは、1974年7月にライバル誌の『ラジオ・エレクトロニクス』誌が、ジョナサン・タイタスが開発したi8008を搭載したマーク8の記事を掲載したからである。対抗上、『ポピュラー・エレクトロニクス』誌の編集長アーサー・サルスバーグが、新年号用に、レスリー・ソロモンにマーク8より進んだ製品を探すように言ったからである。そこでレスリー・ソロモンは、エド・ロバーツに声をかけた。エド・ロバーツはウィリアム・イェーツと協力してオルテア8800を開発した。エド・ロバーツはオルテア・バスを創案した。
ここで『ポピュラー・エレクトロニクス』誌に載ったオルテア8800の写真は、箱だけのモックアップで中身がなかった。1974年10月にアルバカーキから鉄道輸送されたオルテア8800は、鉄道のストライキとレールウェイ・エクスプレス・エージェンシーの倒産が重なったために途中で消えてしまった。そこで急遽、箱に発光ダイオードとスイッチだけを付けたモックアップが送り出され、新年号の表紙に間に合わせたという。この話は、色々なバリエーションがあって、どれが本当か確かめようがない。
ついでにオルテア8800の名前は『ポピュラー・エレクトロニクス』誌の編集者の12歳の娘のローレンが『スタートレック』から思いついたという説が有力であったが、最近はそうではないという説も出ている。実際に出荷されたオルテア8800の回路は、雑誌に載った回路図とは、大分変更があったという。
出来てもいないオルテア8800用BASICを売り込む
これでビル・ゲイツの期待が満足されるぞと、ポール・アレンは、ビル・ゲイツのハーバード大学の寄宿舎カリア・ハウスに飛んで行った。オルテア8800のメモリは標準では256バイトしかなかったが、メモリ・ボードを増設できた。ビル・ゲイツもオルテア8800の397ドルという価格には感動した。オルテア8800は大評判で、1975年2月には1000セットの注文があり、8月には5000セットの注文が殺到していた。MITSの製造能力をはるかに超えた量であったが、倒産寸前のMITSは救われた。
問題となったのはオルテア8800を開発したMITS社がすでにオルテア8800用のBASICやFORTRANを用意しているのかもしれないということだった。実はこのとき、MITS社では増設用のメモリ基板の開発が難航していたため、通常のやり方で用意できるわけがなかった。
ビル・ゲイツとポール・アレンは相談して、1975年1月2日、ニューメキシコ州アルバカーキ市サウスイースト・コール・アベニュー5404番地のMITS社宛に、トラフ・オー・データ社の便箋と封筒を使って手紙を書いた。実際にはまだ何も作成していないBASICを売り込んだのである。手紙の内容は次のようである。
「拝啓、我々の手許には(インテルの)MCS-8080 マイクロコンピュータ上で走るBASIC 言語インタープリタがあります。我々はこのソフトウェアのコピーを御社を通じてホビーストに販売することに関心を抱いております。御社のオルテア・シリーズ・マイクロコンピュータのユーザーにはカセットでもフロッピー・ディスクでも提供できます。我々は御社に1コピー当たり50ドルを課金し、御社は75ドルから100 ドルの間のどこかで販売されるとよいでしょう。もしも御関心がおありでしたら、どうか御連絡ください。敬具(トラフ・オー・データ社)社長 ポール・アレン」
これは全く嘘の手紙であって、インテルのMCS-8080マイクロコンピュータ上で走るBASIC言語インタープリタなどはなかった。大体ビル・ゲイツもポール・アレンもMCS-8080マイクロコンピュータなど持っていなかった。i8080すら持っていなかったのだ。
MITSから、なかなか返事が来なかったので、MITSに電話をすることになった。実際はMITSのエド・ロバーツは、トラフ・オー・データに電話したのだが、それはポール・ギルバーツの自宅の電話番号で、全く話が通じなかったのだという。
互いに押し付けあったが、結局ビル・ゲイツがポール・アレンの名前で電話した。もし話がうまく進んでMITSのエド・ロバーツに会えることになったら、子供にしか見えないビル・ゲイツでなく、大人に見えるポール・アレンがアルバカーキに行くことにした。
諸説あるのだが、ポール・アレンによれば、電話に出たエド・ロバーツに対して、ビル・ゲイツはポール・アレンを装って次のように話した。「ボストンのポール・アレンですが、ほぼ完成したオルテア8800用のBASICを持っています。そちらに行って、お見せしたいのですが」エド・ロバーツは興味は持ったが、そういう電話は毎日10本もかかって来ていたので、いつもの通りに言った。
「1番最初にオルテア8800用のBASICを持って、アルバカーキのオフィスのドアを通って来た人間と契約しょう。今すぐに来てもらっても増設用メモリ・ボードのデバッグ中なのでオルテア8800上でBASICは動かせない。1か月以内には準備できるだろう」
電話は5分で終わったという。こんな大胆な嘘をついてまで売り込んでおいてから、ビル・ゲイツとポール・アレンはハーバード大学のコンピュータ・センターのPDP-10を使ってマイクロソフトBASICの開発を始めた。BASICコンパイラはメモリを使いすぎるので、比較的メモリを控えめに使うBASICインタープリタを開発することにした。
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